ロボット仲間

昔、「ロボコップ」という映画をみたことがある。
タイトルとなった主人公名の「ロボコップ」を訳すと「ロボット警察官」となるが、正確に言うと半人半ロボットのサイボ-グである。
半分ロボットなので、破壊力は通常の人間よりも優り、人間の警察官が踏み込めないような危険地帯にも踏み込んでいける。
最近、絵空事かと思っていたこうしたロボット社会が急に現実味を帯びてきた感じがする。
ロボ介護士、ロボ歌手、ロボメイド、ロボ犬、などロボット仲間に人間が囲まれて生活する日は、それほど遠くはないのかもしれない。
ところで、「ロボコップ2」で印象的なシ-ンがあった。
ロボコップの敵となる超ド級ハイテクロボットが、ビルの階段にさしかかかった時に、ミジメなくらいにバランスをくずして転がり落ちていくシ-ンである。
実はこのシ-ンは、今から二十数年前のロボット技術の弱点を的確に表していた
当時のロボットは、産業用のそれにみられるように手の滑らかな動きを実現し、視覚、聴覚、触覚などの感覚もある程度人間に近い能力を身に着けていた。
ただロボットが「人間のように」歩くことが、どうしても実現できずにいた。
早稲田大学の加藤教授が開発した歩くロボットは、倒れることなくイッポ歩くのに20秒ぐらいかかっていたと思う。
我々が無意識に行う「歩く」ということはそれほどスゴイことだったのだ

最近、ホンダが開発したロボット「アシモ」などは、二足歩行が完全に実現している。また最近、段差や階段の歩行も可能となったというニュ-スを聞いた。
となると、ロボットは人間のパ-トナ-になりつつあるといってよい。
ホンダ「アシモ」の開発は、当初4人でスタ-トした。
人間の歩行には、どちらかの片足に重心がかかる「静歩行」だけではなく、重心がいずれの足にもかかっていない「動歩行」の瞬間があるそうだ。
この「動歩行」をどう解釈し、ロボットに植え付けるかが一番大きな難問となった
4人はリハビリセンタ-に行って自ら実験台になったり、体の節々に目印のシ-ルを貼って飛んだり跳ねたりした。周りからはとても変なことをする集団だとみられていた。
それでも、人間が歩くとはどういうことを少しずつ解明していった。動歩行の際に、足指の付け根や踵の付け根が体重を支えていることや、足首が前後左右に曲がるお陰で体が安定し、路面との接触感がもたらされること、膝や股の関節は階段の昇降やまたぐ動作に欠かせないことなどがわかってきた。
こうして開発した「アシモ」は現在、ホンダ本社で接客をするなどの仕事を行っている。
日本のロボットは、今産業用からオフィス用または家庭用へとシフトしつつあるが、SF作家であるアイザック・アシモフの作った「ロボット三原則」というのがある

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反する恐れのないかぎり、自己を守らなければならない。

ホンダの開発班が、この三原則を以下のように少し「曲げて」ロボット製作を行おうとしたことは、なかなか味わい深いことであった
第一条の「ロボットは人間に危害を加えてはならない」は同じだが、第二条の「ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない」ではなく、「原則として人間に注意と愛情を向けるが、時として反抗してもいい」である。
第三条は、「人間の愚痴を辛抱強く聞くが、時には憎まれ口をきいてもいい」とした。
つまりロボットを奴隷とはぜず、人間とロボットとの「共生」をはかるというコンセプトに通じる
最近のロボット事情をいうと、日立都市ロボティクスプロジェクトにおいて、人間とロボットとの共生の研究が 行われている。
まずこのプロジェクト施設の道案内をしてくれるのが「エミュ-2」という身長80センチぐらいの可愛らしいロボットである。
「エミュ-2」は主にオフィスでの人間との共生を目ざして開発されたものであるが、この「ロボッ娘」に「○○様ですね」「ご案内します」「こちらでございます」と声をかけられ導かれていくと、誰しも微笑を禁じることができない。
40年ほど前にあった「ミクロの決死圏」という映画は、人間がミクロ化して人体というコスモスに入り込み、医療銃で患部に薬を吹きかけtたり、医療刀で患部の修復や切除をして、人間が体外に帰還し、元の大きさに戻るというものであった。
今日、これを超マイクロロボット(超微小ロボット)にやらせようという実験が始まっている。
ロボットを薬のカプセルに入れて体内に送り込むことも可能である。
手塚治虫「鉄腕アトム」誕生は、2003年の設定となっているが、今年2009年にアメリカの映画会社が完全CGで「鉄腕アトム」を復活させた。
現在、アトムのようにロボットが人間の心をもつとはどういうことかが、研究されている。
明治大学の研究室では鏡に映った自分をまねる自意識をもったロボット(よくわかりませんが)、早稲田大学の研究室では喜怒哀楽を表情にあらわす、ついでに酒のニオイを嗅ぐと顔を赤らめるロボットなどが登場している。
ロボットそのものではないが、「心をもつ」という点で思い出したのは、遠距離恋愛状態のカップルに特殊なセンサ-をとりつけた服を着せ、男がその服を着て抱きしめると、その「抱きしめ」感が遠くの彼女の服に伝達再生され、彼女はいつも彼氏の気持ちを確認できるというものがあった。
遠距離恋愛用ス-ツですが、片方が真剣モ-ドで使っていたのに他方は遊びモ-ドであったりしたら、ちょっとこわいですね。いや、両方真剣モ-ドで使うことの方がよっぽどコワイッか。

日本はロボット工学において世界最先端をいくが、そこには文化的背景もある。
日本でロボット開発が進んでいるというよりも、外国が二の足を踏んでいるという方が当たっているかもしれない。
神の被造物たる人間が人間に似せたものを作り出すというのは、一神教のキリスト教文化の中で、ある種の抵抗感があるものらしい。
だから、動物に似せたロボットしかつくらない。
心理学者によると、人間には「不気味の谷」というものがあるという。
ロボットは人間に似るにつれて親しみをますが、あるレベルを超えて似すぎると「不気味」を感じて親しみ度がガクンと落ちるらしい

早稲田大学のロボット工学の権威が、アメリカでヒュ-マノイド(人型ロボット)の研究をしているだけで、脅迫状が舞い込んだという。
一方、アニミズム的世界観を生きる日本では、ロボットの中にも魂めいたものを認めて、ロボットに親しみをこめて「モモエちゃん」「ハナコちゃん」と呼んでいる。
イスラム教の社会では、人形を持ち込むことさえも禁止されている為に、「アシモ」なんかが町を歩いていたら、一体どんな暴動がおきることだろう。
しかし日本におけるロボット開発の抵抗感のなさは、アニミズム的世界観というよりも、「鉄腕アトム」という可愛くて強い初期のロボットのイメージが開発者達の脳裏に好感度をもって焼きついていることが大きいと思う。
となると、ロボット工学の進展も日本の優れたアニメ文化に影響をうけたということになる。

ロボット工学は、文化的背景が「産業技術」の方向を条件付けるということの好例であるが、もうひとつ別の分野で文化が技術を条件づける例を紹介しよう。
それは日本に導入される住基ネット(国民背番号制)というもので、これが広範に導入されると市役所などでの事務手続きがかなり簡単にできるようになる。
とても便利なものだが、「固体識別」という言葉が浮かんだ。
アメリカではこうした人間全体に数字をつけることに大きな抵抗感があるという。
ヨハネ黙示録13章に、世の終わりに際し人間の額に数字をうちつけられるという預言があるからである。
特に「666」という数字は要注意と警告している。
多くの人々の意識の中で国民総背番号制にあたるものが世界の終末と結びつけられているのである。

あるロボット開発者は、人間に似せてロボット開発すればするほど、人間との距離が広がっていく感じがする、といっていた。
また別の開発者は、ロボット開発によってかえって人間の能力の素晴らしさを知ったともいっていた。
ロボットが生身の人間になれないのは、人間の「意識下」の領域をインポ-トできないからではなかろうか
人間の不可思議な全体性はこの「無意識領域」にあり、同時に危うさもそこから発していると思う。
ロボット開発者が、開発によってかえって人間の素晴らしさを再認識するだけの「人間性」を持っているのならば良いのだが、そうでない場合もありうる。
人間の日常に入り込んだロボットが一定の行動を繰り返し、まるで「サブリミナル」のようにある種のメッセ-ジを人間の無意識領域に送りこむのは、今の技術でも不可能ではない。