レトリックとトリック

日本では「言葉巧み」というのは、「巧言令色」という言葉と同じくあまり印象はよくないが、言語的技巧を意味する「レトリック」は、古代ギリシア社会ではまっとうな術として評価されれていた。
もっともソクラテスの哲学の姿勢からすれば、ソフィストの「弁論」をささえる術として発達したレトリックは、どこか「正攻法」ではない感もある。
古代ギリシアで「レトリック」がもてはやさrたのは、の民主制の発達にともない人間が「政治的動物=言語的動物」として捉えられて、議会や法廷において、弁論の力が大きかったからだ
日本の政治家の中で、早稲田大学雄弁会出身者が多いのも、政治家というものが「弁論術」にたけていることを求められている証左なのかもしれない。
首相経験者に限っても、石橋湛山・竹下登 ・海部俊樹・ 小渕恵三・ 森喜朗 などがいて、海部俊樹元首相などは第1回総理杯弁論大会優勝者でもあった。
政治家ではないが、かつてのオウム真理教の上佑氏も早稲田理工学部出身であったが、デイベ-ト部に属し、「ああいえばジョーユー」術を磨いた。
ところで、ギリシアのソフィスト(弁論家)は、英語の「ソフィストケート」つまり「洗練された」という言葉の語源となっており、「詭弁的」というマイナスの意味合いはかなり薄められている。
レトリックを駆使する、つまり「物は言いよう」で自分の主張を印象づけ納得させる術ということであれば、「ソシアル・スキル」として、もっとまともなとりあげ方をしていいような気もするが、実態が伴わない空疎な内容のものを美辞麗句で飾りたてたり、相手を「煙に巻く」術ならば、願いさげということだ。
19世紀はじめ、イギリスのマルサスは自国の経済を守る為に「自由貿易主義」を主張したし、ドイツのリストは後進国ドイツの権益を守る為に「保護貿易主義」を展開した。
そんなことを思えば、「○○主義」などの思想的立場も、自分が所属する国益や階級擁護の為の「思想家」の内なるレトリックで組み立てられたものではなではないかと思う。
「真正な思想」と「レトリック」とのボ-ダ-は、実はきわめて曖昧なもので、それを区別することにもそれほど意義があるとも思えない。

佐藤信夫氏の本「レトリック感覚」によると、古代ギリシアに始まったレトリックは「説得する表現の技術」「芸実的表現の技術」を内容とするものであり、それは2000年来継承されてきたそうだ。
ここにあげられた「説得する表現の技術」や「芸実的表現の技術」を兼ね合わせたようなものとして、1912年の尾崎行雄の有名な桂太郎首相を糾弾する演説を思いうかべる。憲政擁護運動では立憲政友会を代表した質問の中で、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」という名演説を行い、それが大正政変のきっかけとなった。
佐藤信夫氏によると、連綿として受け継がれたその伝統の「レトリック」術がなぜか19世紀後半に断絶があり、1960年代になって新しく見直されたのだという。
佐藤氏が「レトリックの役割」として三番目に上げた、いままで気づかなかった認識の仕方を提示すること、というのには共感を覚えた。
少子高齢化化大臣になられた猪口邦子氏の夫である政治学者・猪口孝氏が、著書に国家は「暴力の独占装置」と書いていたのをみて、なるほどと思った。
国家は対外的には戦争もするし、対内的には国家によってのみ刑の執行が許され、「私刑」は禁止されているのだから、この「暴力の独占装置」というのは巧みなレトリックだと思った
もっとも国家が完全な「暴力の独占装置」かというと、する抜けているかに思われる「暴力団」なるものも存在している。
不謹慎ないいかたかもしれないが、国家と暴力団というのは結構、似通った存在なのだ。
我々がもうけたものに目をつけてなんやかやと口実をもうけてカネをとるのは、国家と暴力団で、いずれも何らかの「力」を背景に強制的にカネを徴収する点では、同じである。
国家は合法性の根拠さえ独占しているのだから、国家の行為は「合法的」で暴力団の行為は「非合法」という違いがあるにはある。
国家は国民にちゃんと「対価」としてのサービスを提供しているのに、暴力団は犯罪以外に一体どんな「対価」を国民に提供しているのかという反論もありえよう。
それに対して、暴力団は街の秩序維持や様々なトラブル解決のために役立っており、私設警察や私設裁判所の役割さえはたしているんだい、と堂々主張するかもしれない。
この世に根付いている学問上のフィクションは「社会契約説」で思うが、次にのべるやや過激な「レトリック」の方が「国家は人々の自発的な合理的契約によってできた」説よりもはるかに真相をついていると思う

暴力団が互いの抗争を通じてただ一つだけ生き残り、暴力を独占して、警察も裁判所も軍隊も独占的に担当するようになってしまい、それが国家とよばれるようになった。つまり暴力団や私的軍団なりが権力を独占したのち文明化して国家に化けた

国家が独占した暴力(権力)を背景に「徴税権」を行使するが、親が子にはただで相続させないぞと「相続税」などをシコタマとりあげるなどをする。
所得税にせよ、国民が一旦手にした「給与」を国に使ってもらっていいですよと申告してもらうのが節操ある「税金」の取り方であるようにも思う。給料をもらう前から、つまりお札をこの目で見たり感触を楽しむ前から「差し引かれて」しまうのは、いかにも「暴力的」な気がするのです
そこで経済学者の竹内靖雄氏は、あれは所得税ではなくて会社が国家にはらう「雇用税」というべきものだといっている
仮に企業が源泉徴収分を納めなかった場合は、税務署から強制的に取り上げられるのは企業の方であって、サラリ-マン個人ではない。サラリ-マンの源泉徴収される所得税とは、実質的には企業が負担し、納税の義務を負う税金の一種なのである。
だいたい、納税者であるサラリ-マン個人と税務署との間にはなんら法律上の関係がないのである。
そう見ると、給料が上がらない原因は、企業にかかる雇用税が大きくしかもかなりの累進性をもっているので、会社は社員に高額の「可処分所得」(まるまる仕える給料)を支払おうとしない。
もしも一億円の可処分所得を支払うための二億円の「雇用税」を収めなければならないとすれば、会社は3億円の出費となる。
それなら社員に2000万円給料として払うことにして、この時雇用税が2000万円ならばかなりの節税になる。浮いた分の2億6千万円を、交際費、ハイヤ-、豪華な社宅、研修用の別荘といった形で社員の為に支払った方がよい。しかもこれらは経費でおとせるから、会社にとっても都合がよいことになる。
なんで日本の重役は欧米に比べて給料が低いのか、竹内氏のこういう「レトリック」で視界が開ける感じがする。

選挙におけるマニュフェストやら、裁判員制度における市民参加など、国民一人一人が「レトリック」と正面から向き合わなければならない場面が増えているような気がする
そういう場面でのレトリックが、「黒」を「白」と言い含めるなどのトリックであったならば、その害毒はきわめて大きいと言わざるをえない。
政府広報発行「レトリックのトリックを見破る術」なんかいう文書を配布していただいたら有り難い、などと思うのはエキセントリックすぎますか。