一般意思と選挙

JJ・ルソーの政治思想に、「特殊意志」・「全体意志」・「一般意志」というのがある。
「一般意思はただ共通の利益だけを考慮する。全体意志は個人の利益だけを考慮し、それは個人の意志(特殊意志)の総和でしかない」とはルソーの言葉である。
一般意志を実際の国政の場で実現するのが政治の役割だろうが、一体どうやって「一般意思」を見出すのか、そしてそれをどう実現するのだろうか。
経済学者アダム・スミスは経済社会において各自の利己心の追求が社会全体の福利をもたらす「予定調和」のビジョンを示した。つまり利己心の追求によって価格の調整により効率的な社会が自然に実現するとした。
しかし経済における価格体系とは違い、政治の世界ではそう簡単に皆の共通の利益になる「一般意思」を見つけるのは容易ではない
多数決をすれば良いというわけではない。なぜなら、個人の利益に汲々としている人々の民主的手続きで一般意志に到達できるだろうか。それよりも個人の利害を離れ得た一人または少数の「賢者」に聞くほうがよほど一般意志にいたる近道である気さえする。(誰が賢者かをどう判断するかが問題ですが。)
また多数決が民主的とはいっても、日本人の得意技は議論の最中に自分が少数派に属することがわかると、簡単に多数派に鞍替えするところがある。この傾向は「一般意思」形成の障害となる。
人間は一般的に真実よりも力を求める傾向があり、賢者の聞きづらい意見よりも、有力者の目先の言葉に耳を傾けるものなのだ。そして賢者は、声なき者として片隅にいたり又は隠棲したりする場合が多いのである。
現実社会の「一般意志」の発現はかくも難しいものだと思うが、少なくともコレコレのことは一般意志とは明らかに反する、と言えることはたくさんあると思う。その材料の一つとして「小沢一郎氏の選挙」をとりあげたい。

1989年8月海部俊樹内誕生が誕生した。その時の幹事長は小沢一郎で、小沢氏と同一派閥である竹下派のドン・金丸信が人事権も解散権も実質的に握っていた。(金丸氏みたいな「寝業師」は、無役の方が番記者がつかず動きやすいのかもしれない)
海部氏は党内最小派閥河本派に属し派閥のトップでもないにも拘わらず内閣総理大臣となった。当時の海部氏の印象は、早稲田大学弁論部出身だけあって弁舌さわやかということであった。
しかし海部氏はあくまでも「表紙」にすぎなかった
組閣一カ月前の参議院選挙で社会党が「土井たかこ」で圧勝しており、次の衆議院議員選挙で自民党が敗北すれば、政権党からズリ落ちる可能性がもあった。自民党の命運は幹事長・小沢一郎に委ねられたといってよい。
そして1990年2月の衆議院議員選挙で自民党は安定多数を確保した。「小沢神話」誕生の時である。
この時、小沢氏は選挙をどう戦ったか。

幹事長就任後の小沢氏は「幹事長の仕事は選挙に勝つこと」と公言し、まずやったことは「資金集め」だった。
それまで、自民党への政治献金は経団連から国民政治協会に流れ派閥に分配された。
自民党と経団連には「定期協議」の場があり、ここで政策面における財界の意向を聞くのである。
だがリクルート事件などあって経団連には自粛の気配があり、小沢氏が期待したような「集金力」は期待できなかった。そこで小沢氏は個別業界団体に直接アプローチする
消費税導入・物品税廃止でが自動車業界と電気業界が潤っていたが、このほか、金融、建設、証券、生保、損保、石油業界などにも個別に政治献金を要請し、要清額の合計は約300億円であった。
おかげで、財界からの寄付は経団連に一本化し、国民政治協会が窓口になるというルールを無視したために、経団連と自民党との関係がギクシャクした。
この時の小沢氏のやり方には問題があるように思う。もともと経団連というのは政治献金を「無色化する」ために存在したものであり、それを頭越しで業界に政治献金の要請したことは、政治とビジネスの暗黙の繋がりをムキダシにしたなりふりかまわぬものだった
業界団体が政治に関与(献金)するのは見返りをもとめてのことというのは常識である。一番分かりやすいのは建設業界で、ゼネコンを筆頭とする建設会社は、公共事業を落札するための営業活動の一環として選挙に取組むのである。
金丸信のお膝元・山梨で金丸氏の支持で当選した候補を応援した建設業者は「勝ち組」、落選した候補についた業者は「負け組」とよばれ、「負け組」は公共事業から徹底的にホサレることもあった。
他の業界も公共事業などのような積極的な利益がなくても、補助金、許認可、税制をイジラレて不利になっては、という気持ちが常にあるから政治との関係をつくるのだ。
結局240億円の巨額の金が自民党に集まり、そのまま衆議院選挙に投ぜられた。そしてこの金を「あと一歩で当選圏内」という候補者に「傾斜配分」した。
選挙には様々な活動と人手が必要で、例えば短期間に選挙区内のポスター貼るのにもの多数の運動員を必要とするのである。
小沢氏は当時の選挙を「体制選択選挙」と位置づけ各業界団体に対して「資金」ばかりか「人の供出」をも求めた。つまり企業に「人もカネも出せ」といわけで、社員・家族はもちろん、販売ルートや下請け・関連企業すべてに票を出させるという仕組みをつくった。(この手法には田中角栄というモデルがあったが)
後に自民党を離脱した小沢氏は新進党を結成した後の統一地方選挙や国政選挙でも、得意とする「建設省ーゼネコンー建設業者」という締め付けによる選挙をフル展開して勝ってきている。
要するに小沢氏は有権者に政治路線の賛同をえる方法ではなく、組織的締め付けによって選挙を戦った。
「小沢神話」は、有権者を政治の主体とみなさず締め付けと動員の対象とみなす形で実現したものであった

「小沢選挙」をみるかぎり選挙の結果は「特殊意志の総和」としか思えないが、国政が選挙民のそうした意志を鏡のように映したのでは、とうてい「一般意志」に到達できそうもない。
国会議員の基本スタンスは、選挙の母体(業界・後援会)になってくれた者達の「特殊意志」をある意味タチキッテ、国民の「一般意志」を見出だし実践することにあると思う。
選挙民も候補者も選挙前の段階から「特殊意思」に染められ締めつけられていては、せいぜい特殊意志の総和たる「全体意志」どまりの国政である。
ただし、誠の共同体なるものは真に一般意思をめざすという気はする。なぜなら真の共同体意識こそはじめて「個の利害」を超えることができるからである。
私はテレビの「動物番組」で動物の群れを見ると、ふとそこに一般意志なるものが実現しているかのような錯覚を覚える事がある。
群れ全体が協働して、サバイバルの一点に向かっているからである