オウナ-シップ社会

NHKの動物番組でマングースの子育てを見ていて、動物の世界での「子育ての社会化」を明瞭に知ることができた。マングースの子供達は青年オスに弟子入りして昆虫の捕獲法や食事法を学ぶ。 食事法というのは、固い甲羅の昆虫を後ろむきで股の間から木にうちつけて甲羅を割って食べる方法などである。
母親は寒季が来る前に沢山の子供を育てなければならないので、そうした技術を教える余裕がないのだ。そこで子供達はこれはと思うオスに自己アピールして生きる術を学ぶ。
青年オスに気に入られるように熱意を充分見せたり、可愛らしく振るまわねければ「弟子入り」は認められないのだから厳しい。
結局「自己アピール力」に欠ける子供は生存できないのだ。母親とは違う他者である存在(青年オス)に自らの「子育て」の一部を子供自身がお願いにあがるのだから大変なことである。というわけでマング-スの子供達は早くから社会性をみにつける。
この番組を見ながら、ナチスがユダヤ人の子供達に行った恐ろしい一つの実験を思い浮かべた。
ユダヤ人の子供達から徹底的に社会性を奪い取ることによって命令通りに殺人を犯す「殺人マシーン」を育てようとしたことだ。 その子供達には普通の子供達以上の栄養を与えながらも、母親には「お面」などをかぶせて生活させ一切の人間的コミュニケーションを排除して食事だけを与えて生活させたのだ。
こうした子育てを行わせた結果、多くの子供は生存することなく死んでいった。
実は人間は、母親が目を合わせる、名前をよぶ、赤ん坊に微笑んだり頬ずりをしたりする、などして広い意味でのコミュニケーションをはかることによってその生命力が維持されているのである。
このエピソードから得られる逆教訓は、「人間生命の社会性」ということである
つまり人間の生命力は内側に単独に存在し得るという考え方の否定であり、生命力という能力ですら、個人の自然性(素質)だけでは育たないということである。
そしてこれは幼児期だけではなく大人になる過程で、個人の自然性に対する周囲の様々な働きかけや物的な刺激によってようやく発達するという側面を見落とすことはできないのである。

ところで資本主義経済の特質は、「私有財産制」「市場経済」と「商品経済」ということになどであろうが、中でも「私有財産制」の確立は人類史上最も大きなインパクトがあったといてよい
経済人類学のポランニーが指摘するように、人間の労働力の商品化と土地のの商品化は人類史上における最も突出した事件であったといえる。なぜなら私有化をはかった対象物を商品化を含め個人の裁量でいかようにも処理できるからである。
それまでは「社会性」や「共同性」が強く一人の人間の判断だけではどうすることもできなかった土地や労働が「析り出されて」商品となったのである
そして最近では「知的所有権」という言葉に表わされるように、労働力の商品化とは一段違う「能力」や「知識」の商品化ということもおきている。(ついでにいえば「臓器」の商品化も行われている)
英語で所有を意味する言葉は、「have」「possess」「own」などいくつかある。この中で「own」という言葉は所有を意味するが、「所有」以外にも「負う」という意味もあるのだ。
親が子供によくいう言葉に「誰のおかげで大きくなったと思ってんだ」という言葉があるように、人間が自分の「所有」と思い込んでいるものが、実際には他者に相当「負う」ているものが非常に多いという事を教えられる
市場経済のもとで労働力や能力が商品つまり誰かの所有物として売り買いされるなかで、自分の健康や能力などをすっかり自分だけのものだと思いどう利用しようと自由であると思いがちであるが、実はすべての「所有物」の形成史をよくよくたどっていけば、市場とは関わりのない「外部」または「他者」にお「負って」いる部分が大きいのである。
いかなる天才といわれる人の能力にせよ、親やコーチや指導者の「市場外部」つまり金銭をともなわない働きかけをもって花開いているのである。

以上のようなことを考えるうち、世界各地に存在した「人頭税」というものを思い浮かべた。
人頭税は人間の存在にかけられる税金であり「悪税」というイメージがある。日本では古代律令制のもとで良民・成人男子一人あたり「稲二束二把」という形でかけられた税金である。
土地や生産物ではなく人間の存在自体にかけられるという「重さ」と、富者も貧者も存在という点では等しく課税対象になるため貧乏人にとっては著しく不利な「逆進税」となることから、悪税というイメージがぬぐえない。
こうした不可解きわまる人頭税の根拠をあえて探せば、王制(または天皇制)のもとで土地は王の私有物、人民も王の私有物という意識があるならば、人間が存在する事は王や天皇の恩恵に与かることであり、その威光の下にある人間は「存在税」を取られるということに対して、文句はいえないということになるだろうか
そこで上述の論旨からして人間はその存在を深いところで他者に負っている部分がある以上、「人頭税」にはむしろ「正当性がある」とは考えられないだろうか
人間の存在という事がきわめて社会的なものであり、社会から多くの恩恵を得て存在しているするのならば、人間は「負うて」いるものに対して「お返し」をしなければならない、という理屈は成り立つのだ。
だが「ちょっと待て」コールがかかりそうである。
自分という存在は、多くの「社会悪」から不利益を被っているという人々も多いに違いない。「生まれてきたくなかった」という人もいるだろうし、自分の根性がねじまがったのは親の接し方や、人の気持ちが分からない教師のせいだと思う人もいる。自分の怠慢をすべて社会のせいにする人もいる。
人頭税を払うどころか取り返すことのできない人生の「補償金」が欲しいという人もいるだろう。とすると今日の民主国家の下で、その存在を何かに「負うて」いることを根拠に、「人頭税」をかけることにはさすがに無理があるようだ。
ただ自分の存在が何者かに負っていると「有難く」受け止められる人は、積極的な「ボランティア」活動などの形で「お返しする」ことはとても自然なことだと思う。

そういえば「possess」いう言葉は「所有」という意味であるが、もうひとつ「とり憑く」という意味がある。名詞の「possession]は「妄想」という意味だ。
我々は「市場経済」というものにとり憑かれ、我々の存在が何かに「負うて」いることを忘れてしまう傾向がある。いきすぎた市場経済は統合ではなく分断をもたらすものだ。
負っている「その何か」は人により異なり一律にきめられないが、少なくとも「負う」ておる意識こそが人々を結びつけ、行き過ぎた「市場社会」のいき詰まりを打開するように思える。
「負う」意識によって結び付けられる社会を「オウナ-シップ社会」と呼ぶのはどうだろう。