折れたコスモス

福岡県内を縦走する西鉄大牟田線の井尻駅でしばしばお見かけする姿、それが元福岡教育大学名誉教授・昇地三郎氏である。
昇地三郎氏は「しいのみ学園」の創立者で日本における障害者教育の先駆けとなった人だが、最近は教育法を知りたいと海外にも招かれ、特に韓国・中国にもしばしば出かけておられる。
昇地氏について最近話題になっていることは、その「脳の若さ」である。超高齢であるにもかかわらず中国語を勉強されて新しいことにも挑戦しておられるその脳年齢がNHKスペシャルでも取り上げられた。

昇地三郎氏は優れた歌人でもあるのだが、その昇地氏の歌碑が1998年能古島に立った。
この能古島の歌碑建立に当たっては、幾人かの人々の強い思いが交叉した。
まずはこの歌碑建設に尽力した能古小学校校長の中野明氏は、福岡教育大学で昇地三郎氏で教えを受けた人物である。
実は中野氏と同じく昇地氏の指導を受け一緒に南福岡駅から大学がある赤間まで通ったのが、俳優の武田鉄矢であるが、筑紫中央高校時代に武田鉄矢が生徒会長、中野氏が副会長という繋がりがあった
大学で「特殊教育」を専攻した武田氏はテレビドラマの「金八先生」の中で、実は昇地三郎氏の教えを語るシ-ンがいくつかあったのだそうだ。
もうひとつの奇縁は、能古小学校の上村啓二君が書いた作文が1978年小中学校作文コンク-ルで西日本新聞社・テレビ賞を受賞したが、その中に次のような一節があった。

その倒れたコスモスの茎にはナイフで切られた跡があった。つぼみも小さく横に倒れていた。コスモスの先を手で触ったえら、そのときしずくがぽつんとなみだのように手のひらに落ちた。秋も深まった日、いつしかコスモスを見に行った。白・赤・紫のコスモスの花が群れになって咲いている中を一生懸命に探した。やっと見つけることができた。他のコスモスの花と違って、ちょっと小さな花が三つほど咲いていた。小さい。でも、僕にはその三つの花が、一番美しくかわいく見えた。今は泣いていないようだった。」

上村啓二君は、能古をかけめぐることの大好きな元気な少年であったが、それから数年後、高校二年の時に交通事故にあい帰らぬ人となった。
父親は自宅がある能古・小平谷の丘に毎年コスモスの花を植えられた。
昇地氏の歌碑をたてるべく土地を探していた時、その教え子中野明校長に上村君の父から、「息子が交通事故で亡くなった道路沿いの土地に歌碑を建ててください」といわれ建立の運びとなったのである。
能古島は壇一雄の最後の邸宅もあり、私もその歌碑までいったことがあるが、壇一夫の歌碑のところから妻リツ子の亡くなった糸島半島小田あたりもはっきりと見渡せるように立っていたことが印象的だった。
能古島は万葉集にも歌われた島でもあるが、その能古島に障害者教育への記念の歌碑が立つことにもなった。歌碑に曰く、

「小さきは 小さきままに 折れたるは 折れたるままに コスモスの花咲く」

ところでこの歌は福岡教育大学(当時学芸大学)の教授だった昇地三郎氏が、二人のお子さん共の脳性小児麻痺に冒されたのをきっかけに、福岡市井尻に「しいのみ学園」を建てられ、重症心身障害児の治療や教育に当たる中、血と涙の中から詠まれた歌であったのだ。
少年である上村君の思いと昇地三郎氏のコスモスへの思いが奇しくも重なったわけであったが、上村君が通った能古小学校の元校長の中野氏が昇地三郎氏の教え子であったことにも、何か引き合ったものを感じるのである。
つまり、昇地三郎氏の歌碑は最高の場所にたったということだ。

ところで昇地三郎氏のしいのみ学園設立の契機について紹介したい。
昇地氏は広島高等師範学校を卒業後、できてまもない広島文理大学の助手を務めたが、義務年限の関係で大阪の小学校に赴任した。
そして結婚し長男が生まれたが、原因不明の高熱に襲われ、足は歩けなくなり、おもちゃを振っていた手は何も握れなくなり、ついには言葉も出なくなってしまった。
名医を求めてはるばる東京まで行ったが、高熱による「脳性マヒ」と診断され現代の医学ではどうすることもできないことがわかったのみであった。
「科学には限界があっても愛情には限界がない」と思いなおし、広島文理大学心理学科に入学し、教育心理学を学んだ。
しかし教育心理学ではあきたらず、医学に救いを求め、九州大学医学部小児科の教授をたより福岡にやってきた。
長男が6歳になると就学通知が来たが就学猶予、翌年もまた就学猶予、三年目に小学校に入学したがひどいイジメに耐えかねて四年生の時、転校、中学二年の春に学校の二階から転落しついに家に引きとらざるをえなかった。 その時の校長の言葉を昇地氏は今でも忘れない。
「中学は義務教育です。親がいるのに、息子さんが学校に来ないで家庭にいるというのはまずいから、有道くんが行方不明になった、という手続きにしましょう」と。怒りの言葉さえ出なかったという。
41歳の時に生まれた次男も同じく脳性マヒとして生まれた。
弟もまた脳性マヒのために就学猶予となり、兄と弟が学校にゆけず抱き合って泣いている。
嬉々として学校に行く同じ年頃の生徒をよそ目に襖の陰で泣く兄弟に親が何が出来るのかと思った時、妻が言った。行く学校がないのなら、実家の財産をすべて売って自分達で学校をつくりましょう、と

その言葉に一大決心をして、児童福祉法による厚生省と福岡県の認可を得て、精神薄弱児施設として「しいのみ学園」を設立した。養護学校施行法がないので、養護学校が一校もない1953年のことで13人の子供達とのスタ-トであった。
「しいのみ学園」の名前の由来は、山の中に捨てられた小さなしいのみは、落葉の下に埋められて、人や獣に踏みにじられているけれども、之に温かい水と太陽の光を与えるならば必ず芽をだしてくる、という親の切なる願いをこめたものだった
前例のない障害児教育は並大抵のことではなかったが、昇地氏が学んだ教育心理学なども参考にして手探りでその方法と方向を探って行った。
しかし二年後、法を守らず教育類似行為をしているといって認可を取り消された。以来、法の枠に捉われずに無認可のまま、誰からも監督や援助をされることなく、親の愛情のみを灯心として、自らが学んだ教育方法を頼りに、わが子を実験台としてひたすら子供達と取り組んだのである。
昇地氏70歳の時に、当時39歳の長男・有道氏がなくなり90歳の時に妻の露子さんに先立たれている。
長男・有道氏の思い出はいろいろあるが、有道氏が僕でも学校の鐘なら鳴らせるといい、昇地氏が名刺をつくってやったところ、自分には肩書きがないと不満を漏らした。名刺に「小使いさん」と入れていくれてくれといったという。その時、昇地氏は自分が学んだ教育心理などなんになろう、この子の最高の栄誉は「小使いさん」なのだ、ということを思いしらされ胸をつかれたという。

世界にはかつての自分と同じように障害児を抱えて途方に暮れた親がいるはず、と昇地三郎氏の海外への進展は95歳から始まった。そして4年連続世界講演旅行を果たした。
昇地氏自身の生涯を返りみれば生後まもなくして飲んだ牛乳が原因で中毒を起こし、以後15年間虚弱児で過ごした。父親が軍人で優先入学の特典がありながら、陸軍幼年学校は身体検査で撥ねられた。男の子二人が脳性小児麻痺で、晩年よりパ-キンソン病に悩む妻の看病に明け暮れている。
昇地氏の95歳になっての海外講演も、ようやく自分の自由な時間が持てるようになったためなのだ。
海外講演のきっかけは、昇地氏の重度脳性小児麻痺の子供達との格闘が「しいのみ学園」という本に紹介され、それに感動した女優・香川京子さん自らの出演希望により1955年に新東宝より映画化されたことによる。この映画は海外でも上映され多くの感動をよんだ。
すでに「しいのみ学園」の韓国語訳がでていたが、福岡教育大学退官と同時に韓国の大学の講演に招かれ大朽大学より名誉博士号を授与された。
ところで日本の障害児教育の遅れと同じように、韓国でも障害児教育は遅れていた。韓国には日本の梨本宮より李朝王子に嫁がれた李方子妃殿下がおられたが、この方子妃殿下は後半生を特殊教育に関心をもたれいたことも大きな誘引となった。
昇地氏の脳は、老いても若い驚異の脳のサンプルとなってNHKスペシャルでも取り上げられた。テレビでみるとストレッチ用健康棒などが紹介されていた。
しかしそれよりも、前例がない障害児教育のため障害児の為に実物教材を独自に考案してきた脳にこそ若さの秘訣があるのではないかと思った。その楽しく愉快な教材は自宅の倉庫にあり4000種におよんでいる。
今現在、自分を102歳児などとよんでおられるが、自分を待っている人々がが世界にいるという使命感こそが若さの秘訣だろう。
昇地氏が自己紹介の際にいつもいわれる言葉がある。自分は小学校、中学校、高等学校、女学校、大学教授とすべての教育職についてきた。障害児を持たなければそんな体験もできかったであろうと。