本願寺王国と「おくりびと」

アメリカやブラジルへの日本人移民団を調べると、意外なことに仏教の本願寺(真宗)の勢力が強く移民先で真宗教団が自然に組織化されているのに気がつく。
例えば、日系人初の宇宙飛行士となったハワイ出身のエリソン・オニヅカは、ハワイで「浄土真宗」組織の青年グル-プに所属していた。
海外移民と浄土真宗とが何か関係があるのだろうか、ということが少しひっかかった。

2008年アカデミ-賞外国語映画賞受賞の「おくりびと」は、主役である本木昌弘が青木新門が書いた「納棺夫日記」を読んで感銘を受け、青木宅を自ら訪れ映画化の許可をえて制作された。元「しぶがき隊」のアイドルのモックンのそういう着眼の素晴らしさに、とりあえず「寿司くいねえ」と拍手を送りたい。
青木氏は日本海の鉛色の空からみぞれが降る中、著者は死者を棺に納める仕事を続けてきた。「納棺夫」とは、死体を棺に納める際、アルコールで拭き、白衣を着せ、髪や顔を整え、手を組んで数珠を持たせ、納棺するまでの作業をする人のことで、これは著者の造語である。
青木新門氏が納棺夫となるきっかけは、前半生のいくつかの失敗にあった。早稲田大学を中退、飲食店経営の失敗、文学に傾倒するが納得ゆく作品を作ることができなかった。
その結果、生まれた子供に飲ますドライミルクを買うお金もなくなったのである。そんなある日、新聞の求人欄に眼が止まったのが、「冠婚葬祭互助会・社員募集」であり、これが著者と「死者たち」との出会いである納棺夫としての仕事であった。
「納棺夫日記」の著者は、この仕事を続けることにより多くの人の死に遇い、そして、「生」と「死」について考えた。一見、顔をそむけたくなる風景に対峙しながら、著者は宮沢賢治や親鸞に導かれるかのように「光」を見出していく。
そして、この生」と「死」を静かに語る作品の序文を書いたのが作家の吉村昭である
実は本木氏が、映画化の脚本を青木氏に見せた時に、ロケ地が富山ではなく、山形になっていたことや物語の結末の相違、また青木氏本人の宗教観が反映されていないことなどから映画化を拒否される。
本木氏は何度も青木氏宅を訪れ交渉し、青木氏の「やるならまったく別の作品としてやって欲しい」という意向をうけ、「おくりびと」というタイトルで映画づくりが始まった。
ところで私はもともとの「納棺夫日記」は、その舞台が富山であることに着目した。青木氏の自らの宗教観や舞台となった土地へのこだわりの中に、富山が本願寺と関わりの深い土地柄であることと無縁ではないと推測する。
福井・富山・石川の北陸三県は、15世紀に開祖・親鸞の血をひいた蓮如が築いたいわゆる「本願寺王国」の土地柄である。そして青木氏の宗教観に最も影響を与えたのが親鸞であったからだ。
ところでこの映画の批評の中に、この映画は「納棺」というタブ-に挑戦したというものがあった。確かに伊丹十三監督による「お葬式」という映画はあったが、「お葬式」は葬式にまつわる人間模様を描いた映画であり、「納棺」ということに着目した映画ではなかった。
それで「小説の世界」に「納棺」を扱ったものはないのか、インタ-ネトで探してみたら津村節子が書いた「天櫓」という作品があり、その内容において映画「おくりびと」と近似したものを見出した。
さらに、津村節子は「納棺夫日記」の序文を書いた作家吉村昭の妻であるという符節の一致を見出した。津村節子氏も本願寺王国の一角、福井県出身である。

津村節子作「幸福村」におさめられた「天櫓」は死化粧師に弟子入りする女性の話である。以下あらすじです。
父母が離婚し母と二人暮しをしていたが、母も職場の若い男と情死する。孤児としておばの家に引き取られたが居場所がなく、自立を決意して職探しを した結果、死化粧師という職業があることを知ってそこに弟子入りする。
死化粧師として、人の死というものを日常的に見ていくうちに、母の死も含めて人間の死というものをだんだん冷静に受け止めていくようになる。この世に生きていることが「仮の姿」であり、結局何を思っても何を考えても、誰とどんな関係をもっても、それは一瞬であると感じるようになる。
津村節子氏は、幼いときから母、続いて父、母代りだった祖母、と身近な肉親を次々に失った。
津村氏は、福井県つまり本願寺王国の地に生まれ、通夜、葬儀、初七日、四十九日、年忌、の繰り返しの中で、幼少期から青年時代に至るまで、死と死に関わる行事はほとんど日常のことであったという
津村氏が「天櫓」を書くきっかけとなったのは、以前週刊誌のグラビアで、死化粧をする若い女性を知り、若い身でなんでそんな仕事をするのかという気持ちがどこかでひっかかっていたからだという。
死化粧というのは、本来肉親が遺体を清めて化粧などをするもので、病院では看護婦が手伝ったが、自宅で亡くなった場合には、最近年寄りもおらないため、医師や葬儀屋が指示をだすのだという。
津村氏は死を題材にした小説を数多く書き、そのため後年「死化粧師」という仕事をしている人を探した
朝鮮戦争で米兵の遺体を本国に送る前に、日本の基地て壊れた遺体を整える仕事に従事していた人々などもあたったが、グラビアにのった女性の消息はわからなかった。津村氏が死化粧師士を探していることをある雑誌に書いたところ、大阪の葬儀社に専属の死化粧師という人がいる、という連絡をうけた。
その男性に会いに葬儀社に行くと、贅沢な調度の特別控室に案内され、清浄室長という肩書きの「死化粧師」氏は恰幅のよい柔和な感じの中年男性であった。
津村氏がそでまで抱いていた「死化粧師」のイメ-ジは、化粧ケ-ス一つ持って死者の枕頭に出張するものであったが、死の仕事場である清浄室はタイル貼りの手術室のようであり、そこに巨大な琺瑯の浴槽が据えられ、エアコンプレッサ-で酸素を送り込んだ湯の中で遺体を洗浄し、マッサ-ジして硬直を和らげるところから始まる大々的なものであった。
死化粧師の行う化粧は、病んだ顔、苦悶の表情を生前に近い顔や姿に戻すことであり、遺族はまるで眠っているような肉親を見て心が慰められるという
この仕事には医学的知識も必要とされ、氏は独自の遺体修正の技術も数多く生み出してきた。氏は、愛する人を失った悲しみは慰めようもないにせよこれほど喜んで貰える仕事ができて自分の「天職」だと思う、と語った。
この「天職」の人に対して水を差すようで申し訳ないが、「死化粧」は遺族に喜んでもらったとしても、果たして死者はよろこぶだろうか、とも思う。
「死に顔」は最後のダイイングメッセ-ジであり、それを美しく化粧することが必ずしも「死者の意思」にかなうとは思えない
私は映画「サンダカン八番娼館」で「からゆきさん」として売られた女性達の墓が、あえて日本に背を向ける形で建てられていたことを思い出す。長崎島原出身が多いボルネオのサンダカン八番娼館の女性達は、彼女達の帰郷を実質的に許さなかった日本に対する気持ちを「背を向ける」形であらわしたのである。

いうまでもないが浄土真宗を開いたのは親鸞である。親鸞は関東を中心に少なからぬ信者を集めたが、いわゆる教団を組織しなかった。道場で布教しても、本山といえる寺を建てることもなかった。
親鸞死後、近親者によって簡素な墓がつくられるが、その墓に彼を慕う門徒達の手で廟所としての体裁をととのえ、その維持・管理を親鸞の身内の者がまかされるようになったのが、本願寺の出発点である
この廟守の仕事を留守職といい門徒一同の委託を受けて行った仕事である。その後いつのまにか世襲となったが八代目蓮如が登場するまでは、すこぶる貧弱なものでとても自立した寺院とは言い難いものであった。
蓮如は親鸞の家系である下級貴族日野家の血をひいいていたが、母親はその寺で働いていた貧しい女性であった。 そしてその蓮如の組織力と広報力によって本願寺勢力を一機に北陸一帯にまで拡大した。
そして織田信長や徳川家康を最も苦しめ続けたのが一向宗(浄土真宗)の勢力であり、地域によっては「国中侍をしてあらしむべからず」と本願寺勢力が戦国大名を追い出し一国を支配さえしたこともある。
ちなみに大阪の町も石山本願寺の寺内町を基礎に発展したのである
ところで日本の農村では、人口調節のために「間引き」が各地で行われていた。しかし浄土真宗が根付いた土地では「間引き」を嫌ったために、貧しい暮らしはますます貧しくなる。
そこで多くの浄土真宗信徒が北海道開拓移民や海外移民にむかったのである
蓮如は生涯に五回結婚し27人の子をつくった精力家であるが、そのことが蓮如に対する嫌悪感に結びつく面もあるが、北陸では妻と子を愛した「蓮如さん」という親しみの対象なのだ。
「間引き」を嫌う感覚は信仰上の意思ばかりではなく、蓮如の子沢山の記憶と結びついているのかもしれない。