結びつきにくいもの

世にジェロという黒人演歌歌手が注目されている。黒人と演歌が結びついたその存在自体がウケている。
考えてみればゴルフ、テニス、フィギュア・スケ-トなど白人富裕層のスポ-ツは黒人と結びつきにくいものだった。しかしタイガ-ウッズやウイリアムズ姉妹の活躍によって、黒人の当たり前のスポ-ツになっている。
それならば黒人と大統領だって、最も結びつきにくいものだった。
結びついてしまえば先入観が消える。そしてあたりまえになる
黒人演歌歌手ジェロは母方の祖母が横浜出身の日本人で、鉄の町ピッツバーグで育った。
祖母の影響で幼少の頃より演歌に親しんできた。その祖母に対して演歌を披露するうちに、自らが演歌の虜になっていったという。
ジェロの礼儀正しさとか何をリクエストしてもきちんと歌うのも、結局は好きなおばあちゃんの要望にこたえた成果であったように思う。
私には二人の風景が立体的に生き生きとマブタに浮かぶ。これぞ「バアーチャン・リアリティ」
ジェロは15歳の時、「高校生による日本語スピーチコンテスト」で初めて日本の地を踏んだ。
その時のスピーチタイトルは「ぼくのおばあちゃん」だったという。
ヒップホップ系ファッションを採りいれて、その外見はラッパーのスタイルというのも、高校時代にダンスチームの主将を務めた経験からか。
ピッツバーグ大学に進学し情報科学を専攻し在学中には関西外国語大学に3ヶ月間の留学をした経験がある。この留学期間中に演歌歌手になることを決意した。
大学卒業後再び日本の地を踏み、英会話学校の教職やコンピュータ技術者の仕事に就いた。その傍ら「NHKのど自慢」に出場し合格するなど日本各地のカラオケ大会に自ら応募したうえで出場し演歌歌手を目指して独自に活動を続けた。
坂本冬実主宰のカラオケ大会で優勝した際、スカウトの目に留まりオーディションを受けて合格した。
2008年に「海雪」でプロデビューし日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞した。
NHK紅白歌合戦では、実母が来日し感涙した。
デビュー曲となった「海雪」は、新潟県の出雲崎町を舞台とした曲で 舞台となった出雲崎町では、町民を対象に「海雪」のCDの購入の際に町から補助費を出す法案を可決し、町ぐるみでジェロを応援した
ジェロの好きな日本語は「一期一会」と「ちんぷんかんぷん」、好きなアーティストは坂本冬美、好きな食べ物はホッケ。納豆も好きだが、わさびととろろは苦手だという。
「海雪」を作詞をした秋元康は、良寛の故郷でもある出雲崎を訪問したことはなく、想像力だけで書いた。
積もることなく海にむなしく消える雪、のような女心を。

童謡「春の小川」をコンサ-トで必ず歌うロック歌手がいる。
「春の小川」は1912年につくられた文部省唱歌である。以後歌詞の改変があったものの、90年近くにわたって現在まで小学校、国民学校で教えられ続け、世代を越えて歌い継がれている。
作詞家・高野辰之が当時住んでいた、東京府豊多摩郡代々幡村代々木の渋谷川の上流である河骨川がモデルとされている。
このことは「トリビアの泉」で紹介された。現在では、山手通りと井の頭通りが交差するあたりの小田急線代々木八幡駅近くに「春の小川」の石碑がたっている。
加瀬竜哉というロック・バンド・ミュ-ジシャンは、小さい頃、宇田川という河の側に住んだが、川の存在をしらなかった。東京オリンピックの開催の頃、まるで臭いものにフタをするようにフタがせられた。
この行為は大人たちの愛、つまり後年自分達が安全に清潔に生きるための選択だったのだろう。
後に自分が川の上にいて生きていることを知ってショックをうけた。
そして知らなかったことが無念だと思った。何かを得るために何かを犠牲にしていることを知る。以後加瀬は、東京中の暗渠を訪ね歩くことになる。
そして町の表には出てこない川の暗渠を探しだし、見つけては(フタ)をあけてはいりこみ、まずは「ごめんね」といって涙を流す人である。
この人はけして半端なミュ-ジシャンではない。ミュ-ジシャンとしてそれなりの評価をえている人物だ。
一人のロッカ-が暗渠にいりこみ、誰もいない暗がりで「春の小川」を歌う。そしてまた涙を流す。またコンサ-トでは必ず「春の小川」を歌うようにしている。
加瀬氏にとって「春の小川」こそロック魂の原点なのだ

森高千里が歌った歌に「渡良瀬橋」という歌がある。私はこの橋の名前に有名な公害の川を思い浮かべた。
森高氏は、九州で一番綺麗な水が流れているという阿蘇・高森をひっくり返したうえ阿蘇の草千里から「森高千里」という名前にしたそうだ。
森高が1993年に新曲をリリースする際、なかなかイメージが沸かず困っていた。森高は橋の詞を作ることにし、地図を広げて「言葉の響きの美しい川や橋」を探し、「渡良瀬川」という文字が気に入った。
さらに森高は1989年に足利工業大学でライブを行っており、大学のある足利市内に渡良瀬橋という橋があることを知った。その後、現地に再訪して橋の周辺を散策、そのイメージを使って詞を書いた。
本人が知ってか知らずか、渡良瀬川は足尾銅山の鉱毒と戦うため田中正造による日本公害反対運動の起点となった川である。とても恋人達の出会う場所に相応しい名前ではない。
森高氏はそのことをご存知でしょうか。あなたがオバサンになっても、勉強はしないよりもした方がいいよ
森高は、この曲のヒットを受けて足利市から感謝状を贈られ、そして2007年には足利市の出資で森高・歌碑が完成した。
森高の「渡良瀬川」はそれほどヒットした曲ではない。しかしこの曲に対する足利市の力の入れようは少々異常な気がする。
ひょっとしたら足利市は、公害とどうしても結びついてしまう渡良瀬川のイメ-ジアップをこの歌に託したかったという、それも自分自身でも気づかなかった意図があったかもしれない、などと思った。
だとすれば森高・歌碑は、存在の一端を田中正造に負っていることになる。
一方、地元出身の国会議員で天皇にまで被害を直訴した功績をたたえる田中正造の顕彰碑は、私の調べた限りでは河川流域に見当たらない(あったらゴメンなさい)。
「非実力派」アイドル歌手と日本公害運動との(かなりゴ-インな)結びつきです。