「羅生門」入門

小林多喜二の「蟹工船」が読まれているという。
蟹工船を一度出すと儲かる。そして巨額の利益のほとんどは東京の丸ビルの人々の懐に入る。一方で安い賃金で蟹をとり缶詰にする蟹工船の労働者達はボロのように打ち捨てられる。
今の時代の雇用情勢を反映して共感をよぶのだろう。
同じ時代に書かれた芥川龍之介の「羅生門」が読まれているという話は、ついぞ聞かない。
しかし、私の心の中で「羅生門」のイメ-ジがフラッシュする。描写の一つ一つがズッシリ重く感じる。
平安京では地震とか辻風とか火事とか饑饉などの災がつづいて起っている。
都の門は荒れ果て、狐狸や盗人が棲むようになり、引取り手のない死体までもが棄てられている。
一人の下人が門の下に佇んでいる。平安京は衰微しておりその余波からか、下人は主人から暇をだされて、格別何もすることはなない。
下人は何とかせねばと思うがどうにもならない。結局、餓死するか盗人になるか、と途方に暮れている。
下人は絶対に悪人ではない、むしろ惻隠の情を充分にもった男である
そんな時下人は、門の階上で死体の髪の毛をむしりとる老婆をみて、ひとかたならず嫌悪と憎悪を抱く。
老婆は鬘にして売るのだという。下人はそれを聞き、あらゆる悪に対する反感が湧き上がり、この時点では、饑死するか盗人になるかと云う問題でいえば、明らかに餓死を選んでいた。
そんな下人に、「魔」が入り込む瞬間こそがこの物語のハイライトである
老婆は下人に襟首を捕まえられて言う。この死んだ女は蛇を干魚だといって売り歩いた女だ。この女のした事が悪いとは思わない、饑死をするのじゃて、この女わしのする事も大方大目に見てくれるであろうと。
皮肉なことにこの言葉は、下人の心に今まで全くなかった勇気を与えた。下人は「きっと、そうか」と確認した上でこう云った。「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」
下人は、すばやく老婆の着物を剥ぎとりしがみつこうとする老婆を振り払い、夜の闇へと消えた。
「羅生門」は欧州で第一次世界大戦が始まった頃に書かれた。
その意味では時代を映す「縮図」だったかもしれない。

国家は国民に食と職を保障しなければならない。やれるだけのことをやってどうにもならなければ、よその国に行って奪いとる他はない。
要するに餓死するか盗人になるかだが、国家の場合、餓死してもいいから掟を守りましょうということにはならない。絶対にならない
餓死どころが国民は一割の生活水準の切り下げにも我慢できず、騒ぎ立てるでしょう。1917年の米騒動は、米の値上が騒動となり全国に波及し内閣がつぶれた。シベリアに兵隊が出兵するので米需給が逼迫して米の値段が二倍に跳ね上がったからだ。
1930年代の日本軍の満州への進出も、国が農村の疲弊で苦境に追い込まれた人々に「食」を保障してやれなかったからだ。戦争は一部の指導者達の企図や支配欲だけでおきるものではない。
個人レベルでは終戦直後に法を守って闇米を拒絶し餓死した裁判官はいた。
しかし国レベルでは絶対にそうはならない。
夏目漱石は、国家の道徳心について「私の個人主義」の中で次のような文章を残している。

ただもうひとつご注意までに申し上げて置きたいのは、国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いものの様に見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくつても、徳義心はそんなにありやしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする異常、国家を一団と見る異常、余程低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家が平穏な時には、徳義心の高い個人主義に矢張重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思はれます。

国家というものはマッチポンプのように欲望をすいあげ、それ自体制御できないリヴァイサンと化すのだ
食に関していえば、私は1980年代ポ-ランド・ヤルゼルスキ政権下でグタニスクの造船所でおきた暴動を思いおこす。ワレサ率いる「自主管理労組連帯」は、初めて社会主義政権における一党独裁を打ち崩しその動きは社会主義圏全体に広がった。ワレサ議長はその功績で、後にノ-ベル平和賞を後に受賞した。
暴動のきっかけは食肉の値上げ。端的にいうと労働者の暴動は「お肉が食べたい」というのが理由だった
私から言わせると「お肉が食べたい」というのは「恋がしたい」ぐらいの贅沢な欲求としか思えないのだが、造船所で過酷な労働を強いられる人々にとって切実な欲求だったのかもしれない。
そして、この言葉はモ-ゼの「出エジプト」を思い出させる。
神は出エジプトを果たし荒野をさまよう民衆を憐れみ、「マナ」という特殊な食物を降らせた。
マナは、露が乾いたあとに残る薄い鱗もしくは霜のような外見であり、白く、蜜を入れたせんべいのように甘いとされる。毎朝に各自一定量ずつ採って食べねばならず、気温が上がると溶けてしまうしろもの。この食物が一体何なのかいまだに謎である。
ところがマナに飽いた民衆はモ-ゼに「エジプトに留まっていたら肉が食べられたのに」と不満を漏らし、暴動寸前にまでいく。(出エジプト記16章)
人々はエジプトの奴隷状態の方が、荒野で野垂れ死にするよりまだ良かったとモ-セに訴えたのだ
神は民衆の不満に怒りを露にするが、この話の教訓の一つは食の問題を解決できなければ国の指導体制は早晩崩壊するということ。だから国家は、「盗人」になっても食を確保しようとするのだ
パキスタンでは人の食べ残した食糧が市場で売られている。賞味期限を問題としている国家となんと大きな開きがあることだろう。
ダッカで「残飯市場」を見た辺見庸は次のように書いている。
「東京では日々、五十万人分の一日の食事量に匹敵する残飯が無感動に捨てられているというではないか。ダッカでは残飯が人間の食料として売られていた。神をも恐れぬ贅沢の果てに、彼我のありようがいつか逆転はしないか。東京で残飯を食らう・・・・」途方もない考えが胸に浮かんでは消えた、と。
パキスタンで、食糧の分配をしようと地域ごとに割り当てると、ほんの少しの量の違いが暴動のきっかけとなる。
食糧)が国家の生命線であることは間違いない。パキスタンでは水争いも深刻化し軍隊が出動している。

ところで芥川龍之介の神経は狂を発しても仕方がないかと思うほど鋭敏だった。
鎌倉で過ごした時、花の色づき具合の異常から大異変がおきることを感じ取っていた。そして一週間後、関東大震災がおきた。
芥川龍之介は1927年ぼんやりした不安を抱いて自殺した。1927年は大正デモクラシ-の真っ只中、浮かれてもいい時期なのに、芥川は暗いものを感じとった。
この時代ある意味人間の欲望がそれまでになく解き放たれていた。世の中には船成金や石炭成金があふれた。人間は、何かが解き放たれると不安を感じるのかもしれない。
芥川の不安を裏書きするかのように、死後2年目1929年世界恐慌がおこり、最も暗い時代に突入する。 小林多喜二「蟹工船」は、1929年に書かれ、それまで以上に小林は官憲のマ-クをうける。
1933年には小林多喜二は獄中で虐殺死している。そのデス・マスクは、現在の社会科の学習書にさえ登場する。
拷問死をもみ消そうとした警察に対して、友人たちが証拠を残すためにデス・マスクを取ったのだ
芥川の不安ははやくも1915年に書かれた「羅生門」に凝結している。
1923年関東大震災の混乱の中で、社会主義者や朝鮮人虐殺が起こったこともに、芥川の心の中にいいようのない陰を形づくったことは容易に想像できる。
ところで20世紀までは資源争いの中で石油をはじめ地下資源が大きなウェイトをしめていた。
今後、世界気象の不安定さの中で、食糧や水をめぐる争いがおきる可能性が高いと予想される。
争いがより本質的・根源的になっていく。「羅生門」が人間の未来図とは、途方もない想念か。