任侠道をゆく人々

ヤクザの世界を「任侠の世界」とよぶことがあるが、任侠精神とはそもそも何なのか。
任侠の世界とえば、高倉健・藤純子(富司純子)の映画「花と龍」の世界を思いおこす。配役がとても美しく描かれ、荒々しい沖仲士(港湾労働者)の世界が美へと昇華されている。
ただ東映ヤクザ映画として宣伝されたが、沖仲仕の世界はけしてヤクザではなく、深作欣二監督の「実録モノ」とは本来まったく性格が違うが、「任侠モノ」というのならおかしくはない。
小説「花と龍」を書いたのは北九州出身の作家・火野葦平であるが、火野葦平は本名が玉井勝則で、自分の実家である若松の玉井組(沖仲士の組長)の世界を描いた。
その玉井家の娘が嫁いだ中村家の息子が現在アフガニスタンでペシャワ-ル会を組織して医療活動をしている玉井哲である。
そして玉井哲氏の風貌は、「花と龍」の主人公のモデルとなった玉井金五郎に実によく似ているそうだ。
ところで、「任侠精神とは「自分の全てをかけて相手に傾向し、命をも惜しまないという利害打算を度外視した貢献的な精神」である。
要するに「体をはる」ということだが、それならば中村哲氏の生き方は、まさに「任侠道」そのものではないだろうか。カイロを体にはってぬくぬくと生きている私のような人間からすれば、体をはって生きる人は本当に尊敬に価する人々である。
「国境なき医師団」の活動もなかなかリッパだが、中村氏は国連も諸外国NGOも行かない山間辺境の無医村地区にでかけ活動する。タリバ-ンなど日本人を敵視する組織もあり誘拐・拉致の危険さえある。(一方でタリバ-ンをテロ組織ど同一視することも危険です。)
中村氏の「国境なき医師団」に対する批判は手厳しいものがある。彼らは巨額な資金のもとに、高級ホテルに宿泊し、夜毎にパ-ティ-を開くような現地の人とはかけはなれた生活を送っていると批判している。
あくまで現地の人と同じ立場 で、生活もできるだけ共にするというのが中村氏の信条である。
アメリカのアフガン空爆が中村氏の存在や発言をクロ-ズアップすることになったが、それがなければ氏の地を這う活動もそれほど知られることもなかったと思う。
中村氏は現場からの実態とそれへの対応をこそ重視する人のようだ
次のような発言がある。 「ペシャワ-ル会が継続した理由は、本部が東京になかったということがあると思うのです。もしもこの会が東京にあったなら、いろんな論客がやってきて、いろんな意見をいいますよね。東京には才気のある人たちがたくさんいますから、そこでいろんな議論がなされて、結局、議論が物事を決めていき、肝心の現地の感覚とかみ合わなくなり、多分空中分解したんじゃないでしょうか」
私は同じく「任侠道を歩いた人」として、豊田商事や森永砒素ミルク事件と戦った中坊公平弁護士なども思い浮かべる。
彼らは今日の価値観からすれば、ほとんど「変わり者」であるのかもしれない。
しかしこういう「変わり者」は利害に竿サス器用さがないし、またそうしたことに「羞恥」の観念があるのかもしれない。それこそ「高倉健」の任侠美学に極限される精神なのだ。
外見からしては健さんとは似ても似つかない中坊公平氏の著書からいえることは、ただただ不器用で朴訥、またソレに基づく劣等感や挫折感も味わっていて、そんな自分が損得勘定で生きたところで、どうせロクなことはない、とタカをくくったところがある。

「任侠」という言葉は中国の「三国志」にも見られ、けして日本語本来の言葉ではない。そこでアジアで「任侠精神」を体現した人物として安重根を思い浮かべた。
安重根は日本による植民地統治下伊藤博文を暗殺して、朝鮮では豊臣秀吉の朝鮮出兵を打ち破った李舜臣将軍と並ぶ二大英傑とされている。いかに日本の韓国支配が理不尽だったとはいえ、テロリストを国家的に英雄視することにはさすがに抵抗を感じる。
ただ安重根が上記の意味での「任侠精神」の持ち主であったことはまちがいない。
安重根は事件後逮捕されて旅順監獄に収監されたが、その姿は日本人の検察官や判事、看守にまで深い感銘を与えたという。安重根が極めて正義感に富んだ高潔な人物であることを知り、
敵であるはずの日本人が獄中の安重根に揮毫を依頼し、その数は約200点に及んだという
 看守の一人であった千葉十七は安重根の真摯な姿と祖国愛に感動し精一杯の便宜を図った。そして、死刑の判決を受けた安重根は処刑の直前、「為國獻身軍人本分」と揮毫し、千葉に与えた。
韓国総督府での勤務を終え故郷の宮城県に帰った千葉十七は、仏壇に安重根の遺影と遺墨を供えて密かに供養し、アジアの平和の実現を祈り続けた。1979年安重根生誕100年に際し、密かに守られてきた遺墨が韓国に返還された。
宮城県の若柳町大琳寺には千葉十七夫妻の墓があり、1981年、遺墨の返還を記念して、安重根と千葉十七の友情を称える顕彰碑が建立さた。
 また安重根に感銘を受けた日本人として、当時、旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉がいる。
栗原は安重根の国を思う純真さに魅せられ、煙草などの差し入れをしたり高等法院長や裁判長に会って助命嘆願をするなどしていた。
処刑の前日に栗原が何かできることはないかと尋ねると、安は「国の礼服である白絹を死装束としたい」と言った。そこで栗原の祖母や姉達が夜通しで編み上げた白絹の礼服が安に差し出された
そして安は1910年3月26日にその礼服を身につけて処刑となった。
栗原は安を救えなかったざん恨からか職を辞して故郷の広島に帰った。広島では医学関係の仕事につき、役人の世界に戻ることなく1941年に亡くなっている。
ソウルには安重根の偉業を伝える「安重根記念館」がある。
安が処刑の時に身につけた白装束は、栗原の家族ではなく安の母親が編んだと説明されている

地元福岡で「任侠道を行く人」を考えると、私は緒方竹虎を思いつく。
緒方竹虎は中野正剛と幼馴染で二人は規を一つにして歩む。小学校から高校まで同期で、大学は早稲田と一橋と異なるものの緒方は中野と同じ早稲田に転校し同じ朝日新聞に入社する。
親友であり続けた中野正剛と緒方竹虎は、政治の世界ではけして朋友というわけには行かなかった。それぞれが異なる政治意識をもって袂を分かち、時に会うことがあっても政治の話をすることは避けたという。
   また二人の性格は対照的で、中野の感性は一時も休まることなく常に新しいものを求め続け、あらゆるものにキバをむきそして果てた。その一生は自刃という悲劇的な最後を完結するための傷だらけのドラマだった。一方緒方は人の意を受け入れ、時を知り立場をはかり、中野とは逆に平穏であった。肉親、知己の愛に恵まれ、後世に名を残し、眠るように大往生をとげた、という。
226事件で重臣を殺傷した兵士達は朝日新聞をも襲撃するが、そのいきり立った兵士と対応したのが緒方竹虎であった。
福岡市早良区の鳥飼神社近くには、太平洋戦争期に東方会を結成して東条英機内閣と対決し謎の自刃をとげた中野正剛の銅像がある。この銅像横の「中野正剛先生碑」の文字は、中野正剛の幼き頃からの親友・緒方竹虎の書によるものである。
東条内閣に睨まれていた中野の葬儀委員長を務めるという緒方の行為は勇気ある行為、ある意味「体を張った行為」ともいえる
緒方は戦後、1955年の保守合同の立役者となるが、次期首相と目されながら1956年に亡くなった。
緒方竹虎の義理の娘が元国連難民高等弁務官の緒方貞子である
緒方貞子女史は、国連事務総長の候補にもあげられる世界で最も尊敬される女性の一人である。
私も大学時代キャンパスで学生と談笑する姿を何度もお見うけしたが、とても気さくなおばさんで、小さな体はマザ-テレサを彷彿させる。
そして緒方竹虎の任侠精神は、緒方貞子女史の難民救済の仕事の中にも受け継がれていたように思える。