七人の東大教授

世の中には「独立事象」であっても、とても似通ったことがおきるものである。
世界的ミュージカルの「ウエストサイド物語」は、「ロミオとジュリエット」の現代版プエルトリコ設定であることを最近知ったが、作者の想像力の中でおきる事件ばかりではなく、現実の事件にも、「異なろう/似せよう」というアンビバレンつな首謀者の意図があり、実はかなり「従属事象」なのだ、と思う。
例えばナポレオンという軍事の天才がいる。この人物は古典が大好きで、カエサルやアレクサンダーをよく読んで彼らの行動を自分の血肉としていた。
ナポレオンは、もちろん彼らの「DNA情報」を受け継いだわけではないのだが、戦闘の場面場面で古典の中の彼らの「記憶情報」の中から彼の行動の基準を抽出したのである
例えば、ナポレオンのロゼッタ石発見にいたる文化調査団の引率は、アレクサンダー大王と同じくエジプトに帝国の夢を見ていたからだろう。
「歴史は繰り返す」ということの一つの側面はそういうことなのかもしれない。

日本の現代史にとても「ツインな出来事」を発見した。
1903年日露戦争時に日露開戦を唱えた「東大七博士」の建白と、太平洋戦争終結を唱えた「東大七博士」の建白である。
私の地元・福岡との関連でいうと、いずれの「東大七博士」にも修猷館高校の卒業生がそれぞれ一人いた(寺尾享および田中耕太郎)。
さらに新旧「東大七博士」の建白には「開戦」と「終戦」という正反対のベクトルを含んでいた
旧「東大七博士」は、日露戦争開戦を唱道した教授達のことで日本史の教科書にも登場する。
1900年義和団事件以後も撤兵せずに満州を占領状態のロシアは朝鮮にまで食指をのばそうとしており、日本の防備にとって危機がせまっているとして、時期を失すべきでないと開戦を主唱したのである。
これは一つの事件というべきものだった。
東大法学部の教授といえば今でも社会的地位が高いが、当時の法科大学教授の地位は今より高く10名前後の教授の内の7名が「ロシアと戦うべし」という建白書を桂太郎首相はじめ政府高官に送りつけたのである。
その社会的インパクトたるやとても高く、日露開戦へとむかう世論をリードしたといえる
七教授の中心となった戸水寛人は、後に「バイカル教授」とまでいわれたが、ロシア国内の中心部に位置するバイカル湖まで占領すべきというとうてい東大教授とは思えないような杜撰な構想をうちあげている。
この建白の背景にはロシアを中心とした「三国干渉」による領地返還という屈辱もあったが、直接の建白の契機となったロシアにより占領された「満州」はロシアの領土でも日本の領土でもなくあくまでも清国の領土であったのだ。
戸水教授の建議は今日から見てまるでアジティターのごときそれであるが、その建議に熱狂する国民もいたのである。ただこの意見書を読んだ伊藤博文が「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べたと言われている。
日露開戦へとむかう当時の悲しむべき実態だが、そのほぼ40年後に太平洋戦争の終戦構想を打ち出したのが新「東大七博士」ということになる
こちらの新「東大七教授」建白の方は、教科書どころか世間一般に知られることは少ない。
というのは、この七人の教授は名利を離れ、将来とも一切を秘密に葬り去ることを誓い合ったからである。
戦後、その誓約どおり7人の教授の誰もそのことについて語ったり書き残したりした者はおらず、すべては忘却の彼方へと消え去った。
南原教授らはこの「終戦構想」において、空襲の危険ばかりではなく恐ろしい管憲の警戒監視をおかして、何度も内大臣の木戸幸一や海軍首脳と会い、構想を提示し天皇の裁断と詔勅による終戦以外にとるべき道のないことを示している。
しかし日本の終戦劇について一般に名をとどめているのは、木戸貫太郎首相・米内光政海軍大臣・東郷茂徳外相で、今でもほとんど南原教授ら7人の建白のことは表にでることなく、「秘史」の領域といってよいかもしれない。
新「七人」の中心・南原繁はクリスチャンでもあり、聖書の「右の手で行ったことを左の手に知らせるな」の言葉を実践したのかもしれない、と思ったりもする。
南原教授を含む7人の東大教授による「終戦構想」は机上の空論に陥ることなくきわめて現実的なものであった。それは、

(1)一日も早く終戦すべきであるが、その時期としてはドイツ降伏の時がもとも適切であり、遅くとも米軍が沖縄に上陸前であるべきこと。
(2)終戦を確実かつ迅速に実現する為に、終戦の申し入れを直接、米国に対して行う。ソ連を仲介者とする終戦申し入れは事態を複雑にするから避けること。
(3)終戦を迅速かつ容易にするため、連合国の講和条件をそのまま受け入れ、とくに条件をつけるようなことをしないこと。
(4)終戦の決定については、まず陸海軍の背離を図り、次に海軍をして終戦不可避の理由を大胆かつ率直に表明させた上、さらにその事実に基づいて天皇の裁断を仰いでこれを行うこと。
(5)戦後における国民道徳の基礎を確保するために、天皇は終戦の詔勅において、内外に対する自己の責任を明らかにするとともに、終戦後、適当な時期において退位すること。
以上である。

南原氏は戦後東大総長となり「全面講和論」を展開した。
アメリカ一辺倒でいちはやく国家独立の道を見出そうとした吉田首相とは意見が対立し、吉田首相が国会で質問に立った南原氏を「曲学阿世の徒」よばわりしたことはあまりにも有名である。
南原氏は日米安保条約や憲法9条にも反対を表明していたが、その論点は今日の観点からしても注目すべきものであった。
南原氏が共産党と並んで憲法第9条に反対した理由は、国家の自衛権の正当性と国際貢献の問題であった。日本は侵略戦争という我々の罪過を償った上で、正義に基づいた平和の確立のために、積極的な国際貢献をすべきだと問いた。
国際連合への加盟を挙げ国連憲章43条には、加盟国に対し国際平和維持活動への兵力提供を義務づける規定があった。すなわち日本が軍備を全廃すれば、国際連合への加盟に障碍をきたす可能性があったからである。
終戦直後の憲法論議で興味深いのは、「曲学阿世の徒」南原氏をはじめ後の「護憲勢力」になる人々が新憲法に疑問を呈し、後に改憲勢力になった保守政治家が憲法を賞賛していたことである。
つまり、占領軍をおそれてか敬服してか憲法を賞賛していた保守政治家たちが、アメリカの方針が転換した1950年代以降になって憲法批判をはじめたのである。
「時勢に流れる人々」と「気骨の人」というものを思わせる図である。

南原教授を含む東大七教授による「終戦建白」は、日露開戦時における七教授による「開戦建白」という影の記憶を踏まえた上で行われたに違いない。
結果からいうと、新「東大七教授」による名誉晩回または失地回復ということか。