続「角福怨念」

今の国会は雰囲気がいいらしい。予算委員会で与党・野党ともに終始なごやかで笑顔が絶えない。その実態は、西松建設問題で自民・民社相方に怪我人がでそうで互いに切り込めずテレ笑いが続いているらしい。
西松建設問題にかつて田中角栄が築き小沢氏らに引き継がれたであろう「なつかしの政治スタイル」を見い出す一方で、麻生氏に至る自民党路線を敷いた小泉純一郎氏が福田赳夫の秘蔵っ子であることを鑑みれば、田中角栄と福田赳夫の怨念の戦いの記憶が蘇り、倦怠期フライドチキンと化した今日の政治も田中氏・福田氏双方の延長線上に位置づければ多少は面白かろうか、と思った。

田中角栄氏と福田赳夫氏は似た部分が多い。田中氏は新潟の牛馬商の長男、福田氏は群馬の名士(町長)の次男ではあるが互いに庶民的な雰囲気がある。田中氏が高等小学校出、福田氏は東大卒と学歴には大きな開きがあるものの、経済通で数字に強いのは両者の共通点である。
ところで小泉内閣以前で任期を全うした内閣は中曽根内閣まで溯るが、小泉内閣と中曽根内閣には共通点が多い。中曽根内閣の政治課題である行財政改革(国鉄民営化など)は、小泉氏の構造改革と同じように自民党の既得権益に大きく踏み込んだ
中曽根内閣誕生は当初「田中曽根内閣」「角影内閣」といわれたとおり田中派の支持があったが、行財政改革や東南アジア友好にとりくみ、首相再選においては直接国民世論の支持をうけた観があり、党内基盤が弱くても長期政権を維持できたという点でも小泉内閣に近いものがある
田中氏がロッキ-ド事件の被告であるため首相候補を出せない田中派が中曽根に票を貸した形だが、一方福田派は中川一郎(中川昭一父)が1982年総裁選出馬に必要な票を貸しているので、派閥的には「田中・大平・中曽根」対「福田・三木・中川」という図式ができていた。
ただし1983年ロッキ-ド事件判決後に、中曽根氏は田中氏の政治的影響を一切排除する声明を発表し、1985年竹下登も小沢一郎らとともに田中派から分離して創世会を結成した。
田中角栄氏は雪国のルサンチマンを背負って東京に出て土建会社社長から政界進出したため、建設業界の成長が地方に多くの富める実業家を生むこと、その彼らが繁栄し続けるためには政府の投資が不可欠であること、そして何より彼らの名誉欲・権力欲をよく理解していた。
田中氏の「日本列島改造論」はシンプルで、産業誘致により地方に中核都市を作りそれらを新幹線で結ぶというものだった。この段階で国民は狂乱物価や土地高騰を予想せず田中ビジョンはわかりやすく魅力的にも見えた。
田中氏は、子孫に借金を残したくないという考えよりも住みよい国土環境をつくることが先決で、単年度均衡でなく長期的な財政の均衡を重視しそのためには世代間の公平な負担こそ必要であると主張した。
一方の福田赳夫氏は元大蔵省官僚らしく均衡予算を説く保守的な財政論者で、急速な成長ではなく安定成長を唱えた

角幅戦争の幕開けは1972年ポスト佐藤選びだった。佐藤栄作首相と同じく官僚出身の福田氏が有力であったがフタをあけてみると田中が総裁に選ばれた(田中氏156票/福田氏150票)。この時福田氏は田中氏の金力を思い知り、後に総裁選びの際には党内総裁予備選挙導入に積極的に賛同したが、田中氏の朋友・大平正芳氏に敗れ、その予備選の第一号の敗者が彼自身になるとは予想していなかった。
党内予備選挙といえば最近、小泉首相が「自民党をぶっこわす」で地方の一般党員の心に訴えかけ予想外の票をあつめ総裁となったことを思い出すが、大平/福田の党内予備選挙は結局、派閥争いを一般党員にまで広げ再び福田氏の田中派に対する怨蹉を深める結果となった。
1974年11月田中氏の金脈問題が週刊誌で明らかとなりロッキ-ド裁判が進行すると、世論を背景に三木首相と福田派はこれを機会に田中派を追い詰めようとしたが、一方田中大平派はいわゆる「三木おろし」で対抗した。
「角福の怨念」という観点から面白いのは、福田の秘蔵っ子・小泉純一郎が、角栄の娘真紀子氏を外務大臣として入閣させた頃の出来事である。田中真紀子氏からすればかつて「凡人(小渕)・変人(小泉)・軍人(梶山)」とよんだその変人と手を組んだことになる。
アフガン復興支援国際会議での一部NGOの会議排除問題で外務省と田中真紀子氏が対立した時に、田中真紀子氏は「何で私が間違って、外務省が正しいの」とジャガイモのような涙をポテトと流しつつ、シャガレタ声で訴えたが、小泉氏は「女の涙には勝てない」などと語りつつも結局は田中真紀子氏を更迭した。
常識からして、高等小学校出の田中角栄氏が、高学歴の官僚を動かすのは並大抵のことではなかったと思われる。しかし田中氏は数字を正確に覚え人の氏名ばかりではなく当選回数やバックグラウンドまでもよく記憶し、この記憶力をもって官僚の人心掌握術にもたけていた。
ブルド-ザ-といわれた割には繊細で人情こまやか接し国会の守衛にも「君、前の風邪治ったか」などと声をかけ感激させた。人々は現金をその場その場で渡され、困ったな角さんったら~、などと思いながらも田中氏のファンとなり、なびいていった。
内閣の閣議に持ち込まれる議案は、各省庁の官僚のトップの事務次官会議で合意が得られたものだが、元警察官僚の後藤田正晴を官房長官に任命し、後藤田氏に紛糾しがちなこの会議を見事にまとめさせた。
福田氏の自宅は慎ましやかであったが、田中氏のそれは「目白御殿」といわれ「目白詣」と称して高級官僚も邸宅を訪れた。そして大臣にする力、当選させる力、官僚の将来を開いていく力、特に政府に配る行政投資ないし補助金の行く先の決定などは、「目白発」であることを思い知るのだ
ただ、田中氏を「オヤジさん」とよんだ小沢一郎氏によると田中角栄の欠点は後継者を育てなかったことである。はやく竹下登氏に「家督相続」さえさせておけば創世会結成による田中派分裂はなかったかもしれない。
ロッキ-ド裁判を抱えていた田中氏からすれば、後継者に権力を譲ることで自分の存在が薄れることを何よりも恐れたのかもしれない。田中氏が刑事被告人になって自民党を離脱しても、派閥拡大につとめたのは広い意味での裁判対策だったといえる。

小泉内閣では、田中真紀子外務大臣で官房長官は福田赳夫氏の長男・福田康夫氏であった。親の怨念だけでなくキャラの違いすぎる二人は常に対立していたと言われている。
2007年9月、福田康夫氏首相辞任は、ねじれ国会で法案審議が遅滞し福田氏が小沢氏に大連立構想をもちかけたが、結局は小沢・民主党に拒絶され内閣を投げ出したという経緯であった。
そこに角福怨念の残痕を見ないではないのだが、福田二世にしてはあまりに淡白すぎて面白くない。
その冷静沈着な風貌の福田康夫氏だが、元プロレスラ-大仁田厚に対し「大仁田君、政治は男のロマンだ。ファイヤー」と説くなど、時に熱血漢ぶりを発揮することもあったというから、「あなたとは違うんです