リアルが欲しい

昔バイクで通りかかった熊本北部の誰もいない山里で、「流しそうめん」用の長い竹筒が架かっている場所があった。人生に一度も流しそうめんを体験したかった私は、なんとしても「流れるソ-メン」を食べたくなり、ザルにソ-メンをもらって挑戦した。
この流しソ-メンはあくまで一人でやるので、竹の先端で自分でソ-メンを流し、脱兎のごとく斜面をかけおり、流れるソ-メンを追い越し、竹の末端付近でソ-メンが流れてくるのを待って、箸で掴まえて食べるというかなりの俊敏性と運動量を要するものだった。
このスキ-・ジャンプの昇り降りに匹敵する一連の動作を三回ほど繰り返した頃、昆虫採集に来た少年達が集まってきたため、もうどうでもイイヤと自棄になり、残りはザルからとって食べ終わったのでした。
全身全霊で行ったせっかくの「流しそ-めん」も、ギャラリ-と化した少年達と私自身の息切れによって、「ザルそ-めん」となるにおよび、ジ・エンド
だがこの山里でもう一つ面白い食事体験した。鍋に水、透き通った白魚、豆腐がいれてあって、鍋を温めると白魚が熱がって豆腐の中に逃げ込む。豆腐に入り込んだ白魚は身動きが出来ず窒息死に追いやられ、それに醤油をふって豆腐ごと食べるという、やや嗜虐性のある食事である。
こちらの白魚の「豆腐追い込み漁」は、「ザルそーめん」の自棄食い後、意外と静粛な気持ちで食事ができ、自分を取り戻すことができた。
この体験をふりかえるうち、私はある本で読んだジュゴンの肉の話を思い出した。ジュゴンは海で泳いでいると人魚のような姿を見せるが、この肉は牛肉以上といわれるほど美味らしい。
私が印象に残ったのは、そのジュゴンの掴まえ方なのだ。まずは海の中でダイナマイトを爆破させジュゴンを気絶させる。さっそく人間が海にもぐりジュゴンに抱きつき、いちはやく二つ鼻の穴に栓をして窒息死させる。
同じ窒息漁でも「ジュゴン抱きつき鼻栓漁」は、繊細な「白魚豆腐追い込み漁」と比べ豪快そのものだ。
かくして食するということは、その捕獲や殺しも含めたプロセス全体が「食する」ということなのだと思わせられる。本来「食す」ことは、全身全力で行うことかもしれない

食を手にいれることだけではなく市場社会一般は、交換における人間関係などまったく捨象して大規模化することができた。その昔、交換は命をがけで掴まえたり心をこめて作ったりしたものを、未知な者同士で行う少々危険な「魂の交換」でもあったのだ。
日常生活の大半はプロセス全体のほんの一端を体験するにすぎない為に、そうした「意味性」が剥落しているともいえる。 現代人に響くモノト-ン・コ-ラスはおそらく「金を使え、もっと使え、今使え、全部使え、それがお前の幸せなんだ」ということなのだろう。「意味性の欠如」した圧迫感だけが押し寄せてくる
グロ-バリゼ-ションのシンボルにもなっているマクドナルド製のハンバ-グが、南米の森林をごそっと伐採して生産した飼料を食った牛の肉だ、という何段階にもあるプロセスの結果であるとはほとんど見えない。
知ったからとてそれがいかほど消費者の「幸せ度」をアップできるかは疑問だが、「意味性の付与」という観点から商品表示も、食品添加物だけではなく、どこの漁師集団が額に汗してつかまえたものをどこの地域の誰々がが加工してつくったものかなどが書いてあったり、加えてつくった人の苦労話や感想まで表示されてあったら、消費することの意味や「心がけも」変わってくるに違いないのだ。
マクドナルドの店員の応対にもマニュアル化が浸透していてしまっていて、よく考えると変なカンジがつきまとう。
自分はハンバ-グと交換に200円程度の金を差し出すだけであって、若い女性からそんなに満面の笑顔を振りまかれるほどの事をしているとは思えないのだ。
カリフォルニア州オ-クランドのマクドナルド店では, アラァ?フォ~!という感じの「生物学上は女性」というヒトが"喰いなッ"てかんじでハンバ-グを力強く突き出す。そのリアル感(生活感)がうれしい。そんな時、ホットモット~ココイチバンカンという気分になれるのだ、マクドナルドなのに。
我々は自由を謳歌しているようだが、随分飼いならされた上での自由しか体験できていないのだ。
これはある部分、学校で教えらる「プロセス」の欠如した断片的知識の吸収にもあてはまるのかもしれない。
人々は何となく押しつぶされ、逃げ場がなく、選択が多様なようで実はなく、無力感にさいなまれている。

現代文明は、プロセスは省略するかブラックボックスなままで、結果だけを消費する文明なのだ
プロセス全体を体験することは、物事の本質や意味を知る大切なことで、そういう体験を「リアルな体験」とよびたい。そして「リアルな体験」の欠如として思い浮かべることは、かつて安部元首相が言った「美しい国 日本」という言葉である。
当時は雇用状況が今ほど悪くないにせよ、首相の口からでるこの言葉は結構人を傷つける言葉ではなかったか。第一美しく生きようにも生きることができない状況にある人はたくさんいる。
元首相が言った如く、言葉から立ち居振る舞いまでなんで美しく生きておれようか、なりふりかまわず生きていく他はない、という人々はたくさんいたはずだ。
せめて「美しく見せる国 日本」ならブラック・ユ-モアがきいていてまだよかったのだが。
現在日本で「美しい」ということは、「隠蔽する」こととほぼ同義語と思ってよい。
我々がハンセン病の患者が隔離されてきた実態や、北朝鮮拉致被害者のことを知ったのはつい最近のことだ。
そうした問題に直接関わった元首相が、希望を語ったにせよなんで「美しい国 日本」などという言葉がでるのか、少々不思議である。それとも安部元首相自身に「リアルな体験」が欠如しているということか。
表面的「美しさ」を追い求め不快体験や痛みの体験を奪い去ることが、実は人間から「幸せ感」をも奪い取っているなどとは考えもおよばない、ということが「リアル感の欠如」に繋がっている
世の中は「貧」や「老」や「病」や「死」があまり目につかないように覆いがかけられているのだ。
私は十数年前に身内の病によりICU(集中治療室)に2ヶ月ほど通いづめだった時期があったが、そこではじめて人間が行き着く「惨」を思わせらる一方で、結局人間は平等なんだと妙な安堵感を覚えた。
何よりも人は「裸で生まれ裸で死ぬ」ということを実感した。
裸といえば赤ちゃんであるが、おしめから紙のオムツになったために赤ちゃんは「不快体験」をする機会を奪われ、身体の自律神経機能を弱めているという話を聞いたことがある。こういうことも含めて「快楽体験」だけで育った若者が、成人式で暴れたりするのではないだろうか。

以前職場であった研修会で大学助教授の話を聞いて、たったひとつだけ印象に残ったことがある。
助教授の実家は大川の家具職人で選挙用の投票箱をつくることになった。父親が何日もかかけて丹精を込めて作った投票箱が、選挙当日白い布におおわれていたことに、子供ながらに社会の「本質的なこと」を感じとったという話だった。
白い布に隠されたものは個性であるなら官僚主義の一端、覆われたものが「突出性」ならば社会的画一主義の一面ということになろうか。
そして「美しい」ということが、そういうデコボコを排除して整えていくことを意味していくのならば、削られた突出性やゴミとして扱われる部分の行き場を社会はちゃんと用意しているのだろうかという疑問もわく。
例えばアメリカという国がどんなにひどい国に成り下がっても、いまだに人をひきつけるのはそういう意味での「美しさ」を追求していない所にある。
人々は心ならずも世間の主流(または美しさ)からはずれてしまっても、そのことを毛ほどにも気ににとめていないし、自分を語る確かな言葉をもっている、ということだ。
少数民族の世界会議に出席した日本のアイヌの若者達が、海外のマイノリティ-が誇らしく自分達を語るのに対して、自分達は何と自分を隠し小さく生きてきたかと思い、ショックをうけたそうである
アメリカには風変わりな人、何かに落ち込んだ人、マンフォ-ルのフタの美しさの虜になってしまった人など、要するにわけの分からない人がとても多いが、自分を語ることについてはけして貧していない。
それがアメリカ流の渾然とした美なのかとも思ったが、思い直した。社会や人間のあり様全般に「美」なんて追求すること自体が間違っている。(もちろん個人として美しいあり方は可能だと思う)
美があったとしてもそれは何かを犠牲にしていたり、何かを覆いかくしたものにすぎない
いずれにせよ安部首相時代に、閣僚達の「美しくない」行為がいくつも露呈し辞任に追い込まれたことは、「美しい国 日本」への欺瞞性がはがれた意味ではかえって良かったのかもしれない。
先日G7後のヘロヘロ会見の件で国会で釈明し帰宅した中川財務大臣に、奥さんがかけた言葉を奇しくもマイクがひろっていた。「ヨッ 日本一!」と。(日本一の酒飲みならば意味が通じますが)
これでは中川夫人まるで「シンデレラ物語に登場する鏡さん」ではないか。激励は分るが中川氏に必要なのは「リアル」なのだ。その場面をテレビで見ていて胃液が盛り上がってきて、思わずゴックンした。
でもよく考えてみるとリアルが必要なのは中川氏だけではなく、日本人全般なのかも。