アメリカ育ちの反米外相

日本の政治家にとって世界秩序は所与である。つまり日本の政治家にとって、世界はその秩序をそのまま受け入れその対応をはかっていく対象でしかない。
さらに言い換えると自らが世界秩序の形成者たらんと意思するような人物は見当たらない、ということである。
ただそういう人物をあえて探せというならば、近衛内閣の外相・松岡洋右こそが唯一の例外だったのではなかろうか。日独伊三国同盟の締結や「大東亜共栄圏」という言葉が松岡の造語であることがそれをよく物語っている。
松岡洋右の姿は、テレビでも時々見かける。それは満州国を圧倒的多数で否決された日本が、1933年に国際連盟総会を脱出のためにさっそうと議場を立ち去るあのシーンである。
当時の松岡の心情たるや救世主的気分をさえおびていた。なぜならこの時の日本の新聞の論調はなんと満州国否決を「十字架にかけられんとしたキリスト」になぞらえていたぐらいだったからだ。つまり松岡は、日本国内に渦巻く「満州国」への期待を自らが体現しその上で国際社会で鞭打たれたものであるから、帰国後日本国内では「ジュネーブの英雄」ともてはやされた。
日本の敗戦後、日本人の多くは松岡を戦争誘致の重大な責任者として非難したが、アメリカで民主政治の実態に触れた松岡にしてみれば、政治家は常に大衆の世論を重んじこれを代表する人物でなければならない、と考えていた。
悪くいえば大衆への「迎合」ということになるが、いかに満州国建国が国際的な非難の的になろうと、大衆政治家たる松岡が、大衆の代表として国際連盟脱退の方向にマスコミを指導し自らもひきずられたとしても不思議はない。

アメリカの日本研究家の中に「松岡洋右」を研究テーマにする人々は少なくない。その理由は、松岡がアメリカで育ち、アメリカの大学を卒業して外交官になったことにあるという
後年、国際連盟を脱退し、ドイツと結んで日米が戦う素因を作った著名な政治家が、アメリカで教育をうけていた点に、多くの学者が興味を抱き、その精神内容を研究しているのだという。
しかし世界の近現代史を学んで気がつくことは、若き日に留学した国と母国が戦う際に主要な役割を果たすことになるケースが意外と多いことに気が付く。
それも留学時に負った「深い傷」がその人物をかりたて、戦時における(精神的に)指導的役割を果たすことになるとは、皮肉なことである。その最も典型的な例は魯迅である。
魯迅が日本の仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に学んだ時、階段教室で上映された幻燈(スライドのようなもの)の中に日本人に銃殺される中国人の姿が映し出された。教室は拍手喝采であったが、一人魯迅の心は凍りつき時間がとまった。
彼にとっての傷は、中国人が銃殺された事実ではなく、その場で薄笑いさえ浮かべながらその銃殺現場を見つめる 同じ中国人の姿だったのだ。情けなさに身を焦がした魯迅は、その「傷」をもとに「阿Q正伝」を書く
ところで、逆に日本のそうした典型例を松岡洋右にみることができる。松岡は少年時代、実家である山口の廻船問屋が事業に失敗して、アメリカに移民していた親族をたよってカリフォルニアに渡る。
松岡は、苦学してオレゴン大学を卒業するが、その過程で体験した「差別体験」が深いトラウマになって国粋主義者となるのである。ちなみに「皇道」という用語を最初に使ったのは松岡といわれている。
1945年、日本敗戦後、松岡のもとに出入りしていた新聞記者が、「アメリカ人とは、どういう人間か」 と質問した。これから進駐してくるアメリカ人について正しい認識をもっている日本人はほとんどいなかったからである。松岡はそれに対して次のように答えた。

「野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。
きみがこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原のまんなかで、きみたちは鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。
そうやってしばらく、互いに睨みあっているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、げんこをかためてポカンときみの横っつらをなぐってくるよ。
さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通してみたまえ。この次からは、そんな道で行き会えば、彼は必ずものもいわずになぐってくる。それが一番効果的な解決手段だと思うわけだ。
しかし、その一回目に、きみがへこたれないで、何くそッと相手をなぐりかえしてやるのだ。するとアメリカ人はびっくりしてきみを見なおすんだ。おやおや、こいつは、ちょっといけるヤツだ、というわけだな。
そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる

第二次近衛内閣で外相となった松岡には「一貫性」を欠いた面があるように見える面があるが、「反米主義」という点では一貫していたといってよい。もっとも、「一貫性」を欠いた面があるといっても松岡本人の頭の中ではスジがとおっているのかもしれない。
多くの列強が中国を分断し利権を争っていたが、日米戦争の最大の遠因は、遅れて登場したアメリカと日本の権益が満州で対立したことである。
この時松岡外相が抱いた構想は、日本・ドイツ・イタリア・ソ連の四カ国が同盟を結んでアメリカを中国市場から締め出すというものであった。
ドイツ・イタリアと手を組むために日独伊三国同盟を結び、ソ連と日ソ中立条約を結んだのもそうした構想の下である。松岡はルーズベルト、ヒットラー、スターリンに互し世界秩序の形成に与っているという意識はきわめて強く、得意満面での凱旋帰国となったのである。
しかし日本と同盟関係にあったドイツと敵対するソ連とさえ条約を結んだ松岡は得意絶頂の時であったかもしれないが、その時点でヒットラーはソ連侵攻の意思を固めていた。
1941年4月松岡が帰国する頃には、日米関係が悪化しつつあったが、アメリカとの関係を改善しようとする近衛内閣にとっては、反米主義を貫こうとする松岡外相の存在はかえって「重荷」になりつつあった。
そして首相が大臣の任免権がないということもあり、わざわざ松岡をはずすために一度内閣を総辞職してあらためて勅命によって第三次の近衛内閣をつくるのである。加えて1941年6月ドイツがソ連に侵攻するに及び松岡構想の一端は破綻する。
ところで日本の政府と軍部は、日本の軍隊を中国東北部にふりむけるか中国南部にふりむけるかで意見がわかれた。ドイツがソ連に攻め込んだため、満州にいる日本の軍隊がソ連に攻め込んでソ連をたたきシベリアの資源を獲得するという「北進説」と、ヨーロッパでドイツにフランスやオランダが敗れたためにいわば「留守状態」になっている南洋の仏領インドシナ(ベトナム)や蘭領インドシナ(インドネシア)に侵攻して南洋の資源を確保しようという「南進説」とに分かれた。
南進説を採用することの最大の問題点は、太平洋におけるアメリカの利権と決定的にぶつかることであった。
反米主義をとる松岡からすれば「南進説」をとったのかと思いきや、ソ連をドイツとともに「はさみうち」する北進説をとった。満州鉄道副総裁として働いたこともあり、「満蒙こそは日本の生命線」と主張した松岡にすれば、北を重視したのは自然なことなのかもしれない。
しかしながら日本に戦時中より在住するユダヤ人ラビ・トケイヤー氏が、松岡の「北進説」について意外なことを書いている。
松岡の「北進説」の真意は、ソ連の脅威というよりもドイツがソ連国境をやぶって日本の生命線たる満州に攻め込むという危機感があったからだという
これで、日ソ中立条約を結んだ松岡が北進説をとったことは全く一貫性がないように見えて、これを知るとその真意が理解できる。
つまり「北進説」はソ連をたたくことにあるのではなく、独ソ中立条約さえやぶりソ連を破ったドイツがソ連をまたたくまに席巻し満州国境まで攻め込むことをおそれたのである。
実は日本の同盟国ドイツの総統ヒットラーの「わが闘争」は日本語に訳された際に、日独同盟に都合の悪い「黄禍論」が削除されていた。直接相対したことのあるヒットラーを一段よく知っていて、ドイツ侵攻の危機を防ぐ必要を思ったのである。つまり日独同盟などハナからあてにならない事を松岡自身が知っていたということだ。
松岡は自信過剰で独断専行しすぎたという面があるが真実は逆で、松岡が自分と同様に劣等感の強かったヒットラーに対してそうした認識の仕方をしていたという点でも興味深い。
元来、国家というものは友人をもたいないものである。国家には自分の国の利益が存在するだけであって、友情や絆などというものは幻想にすぎない事を思わせられる。ただ、お互いの国の利益が合致した点についてのみ、一種の友情と考えられるような密接な関係が、そこに生みだされてくるにすぎないということである。
ところで、日本軍の「北進」か「南進」かについて決定的な情報がドイツ人のソ連スパイ・ゾルゲからソ連に打電される。それは「日本軍の北進はない」という政府決定であった。
「日本軍の北進はない」ため、ソ連はその兵力を満州からヨーロッパ戦線に振り向けることができ、これが独ソ戦勝利につながる。ゾルゲ情報の重要度がよくわかる
ところで、先述のユダヤ人ラビ・トケイヤー氏は、「本邦初公開」と断りながらゾルゲ逮捕の迫真の経過を「日本買いませんか」という本の中に書いている。

ゾルゲが箱根下の湖に魚釣りに行くとき、日本の警察は密かにその湖の周辺で見張りについていた。
ゾルゲは、ボートに乗って魚釣りの用意をして湖の中央にこぎだす前、手にもった紙片に暗号文を作成していた。 ボートに一緒に乗っていたのは、ドイツ国籍のソ連のスパイであった電気技師だった。
このような状況を一部始終湖のまわりで観察していた日本の警察当局者は、彼らがボートから上がって自動車に乗り、東京に向かって立ち去ってから、湖の中を徹底的に捜索したのである。
当局はゾルゲがボートの上から細かくちぎって捨てた紙切れを、一片残らず集めてそれをつなぎ合わせ、それが暗号文である事実をつきとめ、その決定的な証拠に基づいて、ゾルゲを逮捕することになった。

ユダヤ人ラビがなんで官憲しかしらないことを知っているのかと疑問に思ったが、情報の達人たるユダヤ人社会だけに何らかの情報のリークがあったのかもしれない。
ところで松岡は戦後A級戦犯に指定され巣鴨プリズンに収容されたが、そこで病死している。
松岡の親族に岸信介がいる。また松岡の妹の娘が佐藤栄作の妻・寛子である。
岸信介は、国会周辺にデモ隊一万人にとりかこまれながら、(当時の)対米従属のシンボルたる「新日米安全保障条約」の自然成立に持ち込んだ時の首相である