遅くあれば待つべし

あるテレビ・ドラマのワンカットで「遅くあらば待つべし」という言葉を見かけた。ピカリと光ったこの言葉は、旧約聖書ハバクク書にある言葉である
そのドラマは(題名はわすれたが)、天才ピアニストのフジコ・ヘミングの半生を描いた実録ドラマであった。
天才といわれたフジコは世界を目指しオーストリアに渡る。指揮者バーンスタインの知遇を得て、その実力を実証すべく臨んだコンサートの前夜に、高熱のために聴力を失いその評価を失墜するという悲劇を体験する。 その後貧しい生活ながらピアノを教えつつ聴力の回復をはかる。無国籍の難民として裕福な留学生にイジメラレながら、貧困と病気と屈辱の日々を海外で生き抜くことになる。
最愛の母が亡くなり日本に帰国する時友人より別れのカードをプレゼントされるが、そのカードの中にこの言葉「遅くあらば待つべし」という言葉が記されてあったのだ
この言葉をドラマの脚本家が思いついたとはとても思えないので、これは事実に基づいたことなのだと思う。
フジコ・ヘミングは帰国後母校の東京芸術大学で小規模ながら演奏会を開いたりしていた。
ところがNHKが帰国した彼女の半生を番組で紹介し、後に彼女のテーマ曲ともなるリストの「ラ・カンパネラ」を演奏したところ、視聴者から大きな反響があった。フジコは思わぬきっかけで世に認められることになった。
あの時もらった「遅くあらば待つべし」の言葉は、この時のために天から彼女に届いた言葉のように思えた
しかしフジコはけして機が熟すのを待ったわけではなく、ただただ待たされたのだ。その才能が、その心を基調に最も良い音を奏でるまで待たされたのだ
もし彼女が「なぜ待たされたか」と問われるならば、彼女の書物等から推して、「神を畏れるために」と答えるに違いない。

苛烈な生存競争の世界で、人は一歩でも先んじて功なり名をとげんと欲する。例えば戦国時代の武将の中で、隠忍自重して機が熟すのを待てる人間はそうざらにいるものではない。
「待つ」ことの天才は徳川家康である。この人物の「待つ」能力は、今川家・織田家合わせて10年間以上もの人質生活の間に養われたといってよい
家康は幼き日に、織田家の人質となるはずが家臣にだまされ今川家に人質としてとられ、その後あらためて織田家の人質になって育ったという異常な経歴をもっている。その後家康は織田家の客将として戦いしだいに頭角をあらわし「東海一の弓取り」といわれ、後に三河の大名として信長と同盟を組むまでに成長する。
織田信長が明智光秀に殺されたとき、迅速に動き光秀を倒した豊臣秀吉が信長の後継者として急浮上するが、家康もそれなりに「信長の後継者」たる実力を有していたといってよい。しかしこの時、家康はけして無理をすることはなかった。
その家康と秀吉が戦った戦いが一度だけある。小牧・長久手の戦いで、戦闘自体は小規模なものに終わる。戦いでは家康の方が優勢ではあったが、家康は無理はせずに秀吉に臣従を誓い、秀吉の勧めにしたがって関東に拠点を移している。ここでも秀吉に一歩譲った形だが、家康なりの目算で江戸でしっかりと地歩を固めながら、秀吉の凋落を待ったといってよい
実際に朝鮮出兵の途中に秀吉は病死し、天下の趨勢は五大老の筆頭たる徳川家康に一機になびいていく。そして結局は大阪の陣で豊臣家を滅ぼし、二百年以上も続く江戸幕府の基礎を築くのである。

日本人はその時その瞬間を大事にするが、本当の意味での「待ち」の精神が欠如しているように思う。言い換えると「遠謀力」に欠けるのではないか。徳川家康は、その長期に安定した幕藩体制の基礎を築いた手腕などから見て、例外中の例外といってよい。
「待ち」の心の欠如は、時間が循環する観念があるからか。冬が去ってもまた冬がくる。時間が同じような円環を延々と繰り返すならば、時間の彼方に何らかの「結末」を見ようとする感覚に欠如するのではなかろうか
日本人のようにその刹那刹那を循環する時間の中の一点で捉える感覚と、欧米人のように時間を直線的に見る感覚は、しばしば対比される。
歴史のはるかかなたに何かを見る構想力、メシア待望などの信仰や共産主義社会の実現のビジョンにせよ日本人とは異なる時間観念のなかから生まれたものである。
日本人の場合は、待ちは待ちでもせいぜい人生一代限りの範囲で物事を処理しようという展望の範囲でしかない。例えばある一族が物事を計画する時に、三代後や五代後さらには十代後に至るビジョンをもって物事を成し遂げようというような遠望や遠謀が果たしてあるだろうか。
ヨーロッパには二百年以上にわたっていまなお建築が続いている建造物さえ存在していると聞く。
またヨーロッパのユダヤ財閥・ロスチャイルド家などを見ると、日本人の時間や空間の観念を遥かに超えたところで財の蓄積と運用を行っているように思えてならない
ロスチャイルド家の基礎を築いたマイヤ-はもともとドイツの両替商として成功したがイギリスに本拠を移した。そしてその長男はフランクフルト、次男はウイ-ン、三男はロンドン、四男はイタリアのナポリ、五男はパリといった具合にヨ-ロッパ各地に拠点をもって、互いに密接な連絡をとりながら国際的な金融家として成功をおさめていった。
その中でも三男のネ-サンは、イギリス大蔵大臣の知遇を得て政府に重用された。ヨ-ロッパ各地に情報員をおき、伝書鳩を使って連絡をとった。
ナポレオンのワーテルローの戦いでは、ネ-サンはワーテルローに騎馬伝令をおいて、戦闘の結果を伝書鳩によって海岸に停泊中の船に伝え、そこからロンドンへ情報を届けさせた。
イギリス勝利の情報にいちはやく接したネ-サンは、ここから常軌を逸したと思われる行動に出た
イギリスの公債を売りに出したのである。ロスチャイルドがイギリスの公債を売るということは、イギリスが敗れたことを意味すると普通の人々は考え、我先にに公債を売りはじめた。
その結果、公債は大暴落してほとんど価値のない紙切れになりかけた。ところがその瞬間、ネ-サン一転して買いに回り、イギリスの勝利の報がようやく世間に知られる頃には公債は急騰、ネ-サン・ロスチャイルドはほんの数時間で大金をせしめた。
こうしてロスチャイルド家は世界の金融界を牛耳るだけの財を築き、今日の金の価格はこのロスチャイルド家によって決定されているといってよい。
それにしてもユダヤ人は(キリストをメシアと認めていないので)、一体何年メシアを待望していることだろう。それは3000年にも匹敵する気の長さであり、その信仰にあくことさえもない。

聖書の中で「待つ」ことを教えられるエピソードはたくさんあるが、中でも創世記「ヨセフ物語」は「神の時」ということを教えられる
父親に深く愛されたヨセフは兄弟の嫉妬を買い砂漠に置き去りにされたが、商人に発見されエジプトの王家の家臣の下に売られる。
ヨセフその家で特異な能力を発揮して主人の信任を得て重用される。ところが主人の妻に誘惑され、それを拒んだヨセフはその女の虚言により主人の怒りを買い、獄屋につながれる。
ある時、同じく獄屋に繋がれていた王家の料理番が奇妙な夢を見てふさいでいたところ、その不可解な夢の意味を解き明かした。その男はヨセフの夢の解き明かしどうりに罪なきことが判明し、獄屋より釈放された。
その料理番はヨセフに感謝して王へのとりなしを約束するが、その後薄情にもヨセフのことをすっかり忘れ、2年の月日が過ぎてしまう
ところがエジプトの王が異常な夢を見て不安におののいていた時その料理番はようやく獄屋に繋がれたヨセフのことを思い出し、王にヨセフの特異な能力について語る。
そしてヨセフは王の夢を解き明かし、エジプトにまもなく起こる7年の豊作と7年の飢饉を預言したのである。
結局、豊作時の備蓄が物をいいエジプトは難を逃れ、その後ヨセフはエジプト王の絶対的信頼を得てユダヤ人でありながらエジプトの宰相となるのである。
実はエジプトが飢饉の時代にユダヤも飢饉におそわれていたが、エジプトの備蓄のことを知ったヨセフの兄弟が父とともに食糧をえるためにエジプトに寄留することをきめ、その許可を請うためにエジプトの宰相となったヨセフに面会を求める。
かつて自分を置き去りにした兄弟たちの声を壁をを隔てて聞いたヨセフは号泣する。この場面は「創世記」の最も印象的なシ-ンでもある。
この時ヨセフは自分を陥れた兄弟との出会いに感情が炸裂して泣いたのではなく、肉親の情にほだされて泣いたのでもない。
それはヨセフがこれまで歩んできた人生すべてが良きものであれ悲しむべきことであれ、すべてが神の意思が働いていたことを思い知って感極まったのではなかろうか。「神の時」というそのはからいの神妙さに胸を打たれ号泣したのではないか、と思う。
ヨセフは兄弟達にエジプトの宰相となった自分の身をあかし、兄弟たちはひれ伏すように弟に罪を詫びるが、ヨセフはこの時のためにすべてを神が用意されたことだからと、兄弟達のすべてを許して恨みをおくことはなかった。
この話は何よりも「神の時」というものを教えられる。そしてヨセフが獄屋に繋がれた時間はあまりにも酷薄な時間のように思えるが、神の時が「遅くあらば待つべし」という言葉が思いうかぶ
つまり「待ちの時間」は忍耐を要するが、神の意思が働くところでは様々な力が作用しあって、環境の整備や条件の調整が行われている時間と思えば、いかなる時にも希望を持ち続けていられる気がする。