マニフェスト革命

もともとマニフェスト(manifesto)は「宣言・声明書」を意味する言葉で、古くはマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」にあり、この「宣言」はマニフェストのドイツ語となっている。
最近の政治では、「選挙の際に政党などが発表する、具体的な公約」を意味する。
従来の公約が抽象的なスローガンになりがちなのに比べ、マニフェストでは「政策の数値目標・実施期限・財源・方法」などを明示する。
従ってより政策の実現度を、より明確に評価できるようになった。
今後、「何かやります」とか「後世に名が残る何かでかいことやります」とか「無難に任期までやりとげます」では通用しなくなったということだ。
マニフェスト(Manifesto)の語源については、ラテン語で「手(manus)」と、「打つ(fendere)」が合わさった、とする説が有力である。
「手で打つ」→「手で感じられるほど明らかな」→「はっきり示す」と派生したと考えられている。
最近、マニフェストにより政府の政策が数値目標として発表されるようになっため、国家と企業とのアナロジ-(類似性)を思うようになった
国家も企業が財務評価や利潤率など客観的な評価基準の下に運営されるようになったのは、今までにない画期的なことである。
特に政権交代が起きると、長年の政策の延長上にあるのではなく、政策の大きな転換が起きるために、こうした評価基準の意味が増すように思われる
そういう意味では、「マニフェスト革命」といってもよい。

ライブドア事件の頃より、日本でも会社の買収などが当たり前のように行われる気運があって、「会社は一体誰のもの」ということが改めて議論された。
会社の形態で圧倒的な数を占めるものが株式会社であるが、株主や投資家の立場では「会社は株主のもの」という見方が当然視されている。
普通、経済学で企業を考える時に、その存在目的は利潤最大化である。そして、その利潤は最終的には株主に帰属する。
もちろん、社員が仕事に対して「やりがい」を持って働くことや、顧客が会社から高い満足を得ることは会社にとって重要だ。しかし、社員や顧客が重要なのは、彼らが会社に利益をもたらし、最終的に株主の利益を最大化していくれるからだ。
逆に言えば、株主の利益を損なってまで、会社が社員に気をつかったり、顧客に利益を与えたりすることは、会社の存在目的に反している。
株主の利益を最優先し、社員や顧客の問題に対しては、株主の利益に沿って対処することが、会社として当然の行動である。
そこで株主の利益を最大化する基本条件は、当然、株主の意思を最優先するということである。
だから会社の事業内容の再編、経営陣や社員のリストラは当然、株主の考えに従って行われるべきだということになる。
つまり会社の経営陣や社員は、株主の代理人(エ-ジェント)にすぎないということだ
株式会社は当期の営業成績や決算報告を株主総会で公表し、その経営体制の存続如何が問われることになる。

次に、国家と株式会社のアナロジ-と相違を語ろう
国家は税金を徴収し国民に福利サ-ビスを提供し、その成果を有権者が評価する。その評価が芳しくなければ政権交代が行われる。
企業も出資金を集め製品(サービス)を作り顧客に利益を与え、その成果を最終的に株主が評価する。利益が上がらなければ経営陣の入れ替えが行われる。
政府の「マニフェスト」も、営業成績と同じように株主総会ならぬ国会でその「実効性」が評価され、「当期政権」の存続如何が問われる。
これが、自由主義と社会主義といったイデオロギ-闘争の時代であったならば、政策の成果如何が「純粋」に問われることはなかったであろう

以上国家と株式会社を理念的に重ね合わせたが、そうした「理念」自体、簡単に割りきれるものではない。
第一に、政権がマニフェストで数値目標を掲げようと、政権の政策目標は企業の「利潤追求」とは根本的に違うからである。
また一方で株式会社は経済学が仮定するように「利潤を最大化」するだけの存在なのか、という見方もある
多くの会社の定款などには、事業を通して社会に貢献したい、という会社の設立目的が掲げられている。
これは会社が偽善的な装いを凝らしているわけではない。
普通の人間は、金銭的目的だけのために働くことなどできないからだ。会社の事業内容に、何か「公共的」な意義がなければ、社員は誇りをもって仕事ができなし、やる気ももてない。
そんな殺伐した雰囲気の会社に長居はしたくないし、まして人生を賭けようという気持ちは起きないであろう。
また株主からみて長期的利益を目指すか、短期的利益を目指すかで業績評価が違ってくる。
長期的にみれば、社員がやる気を持ち、多くの顧客が高い満足を感じるような事業をする方が、会社の価値もあがる。
言い換えると短期的に株主の利益になることをやれば、長期的に株主自身の首を絞めることになる。
極端な例をあげると、株主が短期的な利益を目的として会社を売り払おうとすると、通常、会社の中身は大きく傷つき価値がそこなわれてしまう、というこもあるのだ。
だから、会社の経営は、株主の思い通りではなく、経営陣、社員、顧客の総意を汲んでおこなうべきだという考え方もでてくる
実は経済学でも、株主権のことを残余請求権をよぶことがある。賃金支払いや債務返済の後に残る会社の残余利益を請求する権利のことである。
こうみると、事業の内容は専門家である経営陣や社員が決め、株主は残余の請求権をもつ存在であったほうが、結局は互いの長期的福利を享受できるという考え方も成り立つのだ。
同様にマニフェスト革命の最大の課題は、長期と短期の評価をどう滲ませるかである。短期的点数稼ぎが長期的マニフェストの足元を掘り崩すこともあるからである

株式会社の「経営陣と社員」を国家の「政権と官僚」と置き換えて現民主党政権のマニフェストを見ると、その中核は有権者(株主)の総意に基づき、「無駄使い」をなくしましょう、「天下り」をなくしましょうというもので、本当に実現できたら素晴らしいことだと思う。
従来、国の従業員がいいように立案して使ってきたお金を、有権者を代表して経営陣(政権)がちゃんと動かし、国民に利益をしっかりと還元しましょうということなのだから
ただし、人間は聖人君子ではない。だから「オイシイ」部分がないかぎり人が集まらないということもある。
予算編成期など泊まり込みもある中、国家の従業員(官僚)の仕事に、強い使命感だけで一体どれだけの人材が集まるのだろうか。
無駄を削るとしても、その一部は官僚の真っ当な給与値上げとしなければ、国は立ち行かないような気がする。
それとも、政治主導でいくから心配ないということなのだろうか。
天下りの原因たる官僚が途中退官するという慣習をやめる為には、給与体系全体の見直しも必要となってくる。

アメリカ建国の理念に「マニュフェスト・デスティニ-」(=明白な使命)という言葉があるが、「マニフェスト」という言葉は本来「選挙公約」に制限されず、もっと広がりのある言葉である。
「明白化」という本来の意味から「自己表明」、「態度表明」などにも通じる言葉で、曖昧な姿勢つまり正体不明から一転自分の姿勢を「明白化」するというニュアンスがある。
そうなると日本最大のマニフェストは、太平洋戦争における「ポツダム宣言受諾」ということかもしれない、などと思った。
その他、歴史を探れば、関が原の戦いにおける家康側につくか豊臣側につくかという大名のマニフェスト、明治維新にいたる過程で、徳川方につくか新政府軍(薩長)につくかという藩としてのマニフェストである。
私の地元、福岡藩は藩論を統一できずについにマニフェストできず、それが為に明治新政府では要職につくことがなく、藩士の憤懣が玄洋社などの結社を生んだのである。

ところで南米で覆面レスラ-が覆面を脱ぐと、実は貧しい子供を助けるためにプロレスで稼ぐカトリックの神父だったという話を聞いたことがある。
こういうマニフェスト(自己表明)はなんだか心温まるが、ヨ-ロッパのある国では、神父が服をぬいだら、強欲なマフィアの手下だったという話も聞いたことがある。