崇められたくない権利

最近映画化された「クヒオ大佐」は米軍特殊部隊パイロットを装った、昭和に実在した恋愛詐欺師の物語であります。
鼻の頭に何かくっつけて高く見せ、父はカメハメハ大王の末裔、母はエリザベス女王の妹と名乗ったクヒオ大佐は、銀座のホステスから、博物館のエリート学芸員、はたまたま弁当屋の女社長までも騙しました。
ヒットラーの言葉に「人は小さなウソには騙されない。人は大きなウソに騙される」という言葉をジでいったような快(or怪)人物です。
クヒオ大佐のような真の詐欺師は、簡単に騙せるような相手を騙したりはしません。
つまりクヒオ大佐が「愛した」女性はそれなりの価値を認められたということであり、「騙した」という言葉が適当ではないほどに女性に夢を見させたともいえましょう。
その正体はけして女性に毒牙をむいた悪人ではなく、女人と共に虚の世界に甘く酔ったさすらい人であったようにも思えるのです。(映画を見ていないので想像ですが)
また最近ブ-ムの太宰治は女性にとてもモテたことで有名ですが、とても自己演出に長けた人だと思います。もし文才がなければ恋愛詐欺師も充分に務まったことでしょう。
こういうと太宰ファンに怒られるかもしれませんが、何しろ手紙の差し出し先の性格や地位によって、文章の内容ばかりではなく字形まで変える「魔性」をお持ちの方ですから、多分にそういう要素をもった御方ではないでしょうか。
こういう「虚構」の中の共演は許せる気がしますが、他者の一方的な演出で都合よく「虚像」を作り出されるのは、御免こうむりたいですね。
たとえそれが「英雄化」や「美化」であってもです


一般的にいって、人は何かのために命をかけて働いたならば、英雄視されることは気分の悪いことではないのかもしれない。
しかし世の中にはそれほどの働きはなくとも「英雄視」されたり「崇められたり」することがある。
それは、何らかの意図を持って「人物像」が勝手に操作され、それが一人歩きするようなケ-スで「情報操作」の一種であるといえるかもしれない。
特に故人となった場合には、死人に口なしで「アクセス権」(反論権or修正権)さえも存在しない。
クリミア戦争で「白衣の天使」とよばれたナイチンゲ-ルは、帰還後その姿をほとんど人前に晒すことなく隠者のように生きたことはあまり知られていない
本当の自分とはあまりにもかけ離れたイメージが一人歩きしていることが苦しかったのか、国家が戦争を美化するために自己像が操作され利用されたことに恐れや怒りを抱いたのか、理由は定かではない。
もっとも芸能界は人物像の操作(創造)なくしては成立せず虚像をもって糧とするが、国家による「人物像の操作」は国家の行為の正当性の付与のために行われ、たとえそれがプラスイメージへの操作であっても、しばしば人を追い詰めてしまうことがある。
世の中には様々な「新しい人権」が登場しているが、いまだ「英雄視されたくない権利」ないし「崇められたくない権利」のようなものが無いのは不思議である。
「人格権」はこれと似ているが、「人格権」は人格を傷つけらたり貶められたりする場合に登場する人権であるが、「崇められたくない権利」の方は過剰に栄誉が与えられる場合に登場する人権である。
つまり名誉毀損と同じく名誉過褒も人権侵害なのであるまいか

また「プライバシ-の権利」の侵害は、自分自身についての情報を自分でコントロ-ルできなくなることを意味するが、国家による「英雄化」などにより勝手に「人物像」を生み出しそれが一人歩きし、もはや自分自身で「自己像」をコントロールできなくなる場合は、「崇められたくない権利」の侵害が起きているといえる。

幼少の頃みたテレビのヒ-ロ-「ハリマオ」のモデルになった人物・谷豊は、私の母校である福岡市南区曰佐小学校の出身である。そのことをはじめて知ったのは30代後半であった。
家族は谷豊の実像について多くを語られることはなかったが、実弟の繁樹氏が少しずつ資料や写真を公開されるようになり、ようやく「ハリマオ」の実像が明らかになってきた。
今から10年ほど前に、ハリマオこと谷豊の行跡を知ろうと、西鉄大牟田線井尻駅周辺から五十川周辺を歩き回ったことがある。
井尻駅のすぐそばの若宮神社には、谷豊が通った「井尻高等小学校」(現在の曰佐小学校)の石碑がたっている。
また実弟・谷繁樹氏の家は、JR竹下駅近く高木から那珂方面にぬけるJR架橋のすぐ傍にある。
井尻小学校「百周年同窓会記念誌」で「谷豊」の名前を調べてみると、彼の故郷である五十川には、「谷」姓が圧倒的に多く同性同名の方もおられた。
「谷豊」の実家は五十川の町で理髪店を経営されていた。
1912年、谷一家はここからマレー半島へ移住してトレガンヌとい海沿いの美しい街で小さな理髪店を開業した。 街には結構日本人も多く、助け合いながら商売を営んでいたという。
1932年大黒柱が急逝してまもなく、一家を悲劇が襲った。シナ人の暴徒集団が日本人商店の襲撃を始めたのだ。
暴徒が去ったあと、自宅に戻ると血まみれになった谷豊と繁樹の妹シズコの惨殺死体があった。
これが谷豊の人生を大きく転換する決定的な出来事となった。
その後、谷豊は勘当同然で家を出てしばらくは姿を消し、日本に戻った家族とは音信不通になっていたという。数年後、谷豊は盗賊団の頭目「ハリマオ」の名前で知られるようになっていた
太平洋戦争開戦真近にマレー人の協力を求める日本陸軍は現地の情勢に詳しい谷豊の存在に注目した。東南アジアの特務機関であった藤原機関(F機関)の神本利男が谷豊に接触、説得に成功して軍の密命を帯びた谷豊の活躍が始まった。
配下には盗賊くずれのマレー人しかいなかったが、特殊技術をもつものも多く、この地に勢力を伸ばそうとしたイギリス軍の妨害工作を行った。
シンガポールに最重要基地があるイギリスは、日本軍はタイ国境を越えてマレー半島を縦断して進撃すると想定し、マレー北部に要塞を建設し、日本軍の動きを止めようとした。
この建設現場に現地人としてハリマオ一党が浸透し様々な建設遅延工作を行なったのである。
バンコクにはのちにF機関を率いる藤原岩市参謀(開戦時は少佐)が赴任していた。
藤原参謀は、ハリマオ一党の活動を高く評価し、特に谷豊という日本人に興味を抱いていた。
開戦の1ヵ月後藤原少佐は、偶然マレー北部の小さな村で谷豊と面会している。
この時、藤原は谷豊の印象について、「数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった」と書いている。
藤原参謀は谷豊一党が行ったダム破壊工作の成功を称えたが、この時谷豊はすでにマラリアに冒されていた。
その約1週間後、藤原参謀の元に「谷豊、重篤」の報せが届く。
藤原の命令で神本利男は担架に谷豊を乗せて運び、ジョホールバルの陸軍病院に運び込んだ。
神本は谷に、病気が治ったら軍政監部の官吏に起用してもらうことに話が決まったと伝えると、ハリマオは神本の視線を見つめつつ、自分が日本の官吏になれるのかと叫び、喜びを露にしたという
実は谷豊は徴兵検査の結果、身長がわずかに足らず実質不合格となり軍には採用されなかったのだ。
この時の屈折した気持と、その後谷豊が盗賊団の頭になったことと、無関係ではないかもしれない。
1942年3月17日、ハリマオとして名を馳せた谷豊は力尽きた。享年30歳であった。しかしハリマオ一党の最終目的である日本軍のシンガポール攻略はまもなく成功した。
藤原参謀は、直ちに谷豊を正式の軍属として陸軍省に登記するよう求め、それによって谷豊は英霊として靖国神社に祀られることが決まった
「快傑ハリマオ」はテレビの草創期に人気を博したドラマで、1960年から放映が始まっている。主人公はターバン風の布を頭に巻き、ゾウを操り二丁拳銃で悪者をなぎ倒していく。
実はドラマ「快傑ハリマオ」の元になったのは、戦中の1942年に公開された「マライの虎」で、「マライの虎」をマレー語で「ハリマオ」という。
日本軍に屈折した思いをもつ谷豊してみれば、自分が死後「英雄視」されるのは喜ばしいことかもしれないが、もし生きていたならば映画の「英雄像」と「自己像」とのあまりの違いに卒倒したかもしれない。
何より驚くのは谷豊がマラリアで亡くなったその年に映画「マライの虎」が完成している点である。
谷豊の存在は、戦時の士気高揚のために国家によって脚色され利用されたのだ


人はたとえ英雄視されるにせよ、複雑な気持ちで受け止めざるをえないことが多いのではないだろうか。
日本が朝鮮を併合した時期に、ベルリンオリンピックのマラソン競技で日の丸をつけて金メダルを取った孫基禎という朝鮮人がいた。表彰式で「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだという。
最近あった「父たちの星条旗」という映画では敵方の砦を奪取して旗をたてた写真撮影が失敗し、実際に戦ったわけでもなない人々を使って「写真の取り直しが行われた。彼等は帰還後、盛大な式典をもって英雄としてむかえられた。
その中にはアメリカ国家による人権侵害の歴史をもつインディアンの男もいた。「偽りの英雄」として振る舞うことに耐えきれず酒におぼれて暴力事件をおこしてしまう。
「英雄化」や「美化」はかくも多様で複雑な内面を無視して行われているのである
戦中戦後、果たして故人の意思の確認もなく英霊として祀られることを、果たしてどれくらいの人が本当に望んだことだろうか、と思う。
第二次世界大戦中に旧日本軍に徴用された台湾人を含む元軍人らの遺族が、遺族の同意なしに故人が「英霊」として靖国神社にまつられ、遺族としての人格権を侵害されたとして、靖国神社を直接相手取り、合祀取り消しを求める訴訟が行われた。
こういう問題は今の日本人には無関係にも思えるが、そうともいいきれない。
陸上幕僚監部がイラク派遣部隊で殉職者がでた場合靖国神社への合祀が可能かどうか密かに研究していたことが明らかとなっている。
国家の殉難者つまり英霊として祀られることを光栄に思う人もいるが、この国の英雄として「崇められることも」「祀られることも」希望しない人はたくさんいるはずである。
せめて今日の死後の臓器提供ぐらいの意思確認が必要ではなかろうか
その根拠として「崇められたくない権利」ないし「祀られたくない権利」を提唱したい。

鎮魂が鎮魂であるために。