地デジ放送に寄せて

江戸時代に、手工芸品は、京都(上方)で作られたものが一番とされ、それらが江戸に送られて販売されるときは「下りもの」と呼ばれていた。
それに対して、それらを模造して江戸周辺で作られたものには粗悪品が多く、それらは「下らないもの」と呼ばれ上方の製品とは区別された。だから「下らないもの」とはクダラナイモノなのだ
昔から「下りもの」と「下らないもの」を区分するのは、日本人に本モノとそうでないものを明確に区別する選別意識があったことをうかがわせる。

最近、地上デジタル放送の登場で本物と見まごうばかりの鮮明さでテレビ画面をみることができるようになった。
部屋の中で紅葉が散ったり、書斎の中で熱帯魚が泳いでいたりするのを見ると、「画像が自然になる」日はそう遠くはないのかもなどと思ってしまう。
人はデジタル画像と自然とは違うというが、こういう画像が部屋の中に実現されていれば、たとえ自然の空気に包まれなくとも、それは充分に癒し空間となるにちがいないのだ。
しかしテレビの映像とは元来、それほど正直なものではないらしい。
ロッキード事件で首相秘書官の元妻が、元夫がロッキ-ド社より金を受け取ったとことを証言して、世間をアッといわせたことがあった。
この女性は、「蜂は一度刺したら死ぬ」という名文句で有名になったが、私が見る限り、記者会見ではなかなか堂々としているかにみえた。
しかし現場にいた記者の証言によると、彼女がいかに恐怖におののき青ざめ、目に涙まで浮かべて記者会見に臨んでいたかが、テレビではほとんど伝わっていなかったのだという。
もし地デジの登場が早ければ、彼女の本当の気持ちや表情が正確に茶の間に届いたのではないかと思う。
これは我々には有難いが、逆に困る人もいるかもしれない。齢をごまかしている女優とか、八代出身の女性演歌歌手などもそういうクチなのかもしれない。もうアキですね。
また最近の技術の進歩によって、簡単に本モノに近いものが大量に作られるようになり、「本モノ」と「偽モノ」の境界がはっきりしなくなった。
だから「知的財産権」の保護が主張されるようになったのだが、それなりに楽しめるモノなら「まがいモノ」にもそれなりの価値があり、享受する側からすれば本モノと偽モノとの境界もさほど必要なかろうとヨカラヌ思いもしてくる。

地デジは確かに「本物」に近い臨場感を伝えてくれる。しかしこの「臨場感」はクセモノだ。
「枕草子」を読んで思う事は、清少納言の花長風月を体全体で享受する「体感力」の素晴らしなのだ。
「やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる」などは春の夜明けの情景を描写しているのではなく、それによって、心がときめいている様をしめしている。
「蛍のおほく飛びちがひたる、また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし」と、この女性には素敵なことがたくさんころがっているようだ。
もちろん彼女にとって「わろし」もたくさんあるが、この女性の「面白がり」精神にとっては、たいしたことではないのかもしれない。
「にくきもの」の例として、「急ぐことあるをりに来て、長言する客人」などをあげているが、彼女の筆ぶりからすると、「困っちゃうな~!」ぐらいなものでしょう。
デジタル化の技術は、日本人が自然と接する場を奪い清少納言のような「体感力」を壊すのではないかといわれてきたが、時間や経費などの制限でなかなか本モノの自然に接することのいできない者に、微妙な陰影を再現できる画像の提供により、むしろ繊細さや優美さを感じ取る感性をも賦活してくれるのではないかとさえ思うのだ。
もちろん「まがいもの」に価値があるとはいっても、養殖魚やブロイラ-ばかりを食べて地魚や地鶏の味覚を知らなければ人生の楽しみを失うことになる。
だから、いつかどこかで「本モノ」体験がなければ、最高度のデジタル画像にふれても、その由来たる「本モノの快楽」を蘇らせることができないということは、ありそうだ。
また世の中にはどうしても本モノと偽モノを判別しなければならない分野もある。
そういう分野では、真偽鑑定の「目利き」または「鑑定士」が存在している。

宝石の世界で識別では、何の石で作られているかを見分けるのが「鑑別士」で、その石がどのようなレベルの石かを「グレーディング」(価値づけ)するのが「鑑定士」という。
ちなみに理想の上司・高田純次は「宝石鑑定士」です。
宝石の「グレーディング」ではダイヤモンドの4C(キャラット=重量、カラー=色、クラリティ=透明度、カット=研磨状態)を基準に総合評価する。
こういう世界で優れた鑑定士になる為の「王道」はなく、ただただ、たくさんの石にふれることだそうだ。
多くの「鑑定」のプロがプロフェッショナルになる過程は、できるだけ多くのものに「触れる」つまり「体感する」という点で共通しているようだ。
日本銀行では、世の中に出回ったお金が戻ってくると「鑑査」する(注:「監査」ではありません)。
これは紙幣が再度の使用に耐えうるか損傷や汚れをチェックし、偽札がないかをも調べたりするのだという。
銀行で「鑑査業務」に配属されると「札鑑訓練」が待っている。
訓練の目的は多くの本モノを見て、触れ、指先や体に「本モノの感覚」を覚えさせることである。
その為に社員は一定期間、始業時から終業時まで、来る日も来る日も本物のお札を使った「札鑑訓練」が仕事となるという。
こうした期間を経ると、偽札に出くわした時、指先の触感や肖像画の僅かな色や線の違いを「おかしい」と捉えるえきる「札感」が得られるようになる。
また、ブランド品には、精工な偽モノがでているものが多く、写真だけでは判定できないものがある。
ナイキ・シューズなど「偽物とここが違う」と人に分かるように説明するのがむづかしいものがでている。
実際に履いていみて、縫製や質感などを感じ取って判断する他はないという。
そしてこういう「感覚」を磨いた専門家によって真偽判定が行われるという。
美術品鑑定なども専門の鑑定人の権威と眼力による他はない、つまり「主観」に頼らざるをえない部分が多い。

明治以降近代化が進むにつれて、民事刑事などの裁判で法的判断に必要な真偽判定をしなけらばならないケ-スが増えた。
遺言や契約書や怪文書などの筆跡鑑定などがそれで、鑑定人の主観によるだけでは許されなくなり、どうしても客観性を必要とするようになった。
そこで現在の「筆跡鑑定学」は、ある程度、客観的なデータを基に行われているという。
そしてこれもデジタル技術が力を発揮する場なのである。
ところでデジタル技術やコピー技術が今後どんなに進んだとしても、どうしても写しとれない要素がある。
それは英語で"inspired"という言葉で表わされ、日本語では(=「霊感をふきこまれた」)と訳される部分である。そしてその名詞形がインスピレ-ションという言葉である。
"inspired person"や"inspired work"というように使うと、それは最高度に優秀な人物や作品を表すものとなり、この言葉によって最大の賛辞を表すことになる。
そして真の芸術とは、製作者が何らかの"inspired"された力によって生み出されない限りは真の芸術たりえない。
例えば誰かがどんなにレンブラントやベラスケスの筆致をまねても、彼らの「inspired」された創造力までも絶対にコピーできず、それがおのずと作品の中にあらわれてしまう。
作詞家のなかにし礼氏が、人生の行き詰まりに陥った時に、アメリカでゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」という大作を見て再出発できたという話を聞いたことがある。
なかにし氏が、ゴーギャンの作品の前に立ち、その中にある"inspired"された部分に感動し魂の奥底からそれを体感することができたからこそ、なかにし氏はそうした力を得ることができたのではないだろうか。
最新のデジタルはこの神秘な力を伝えることができるだろうか。
なかにし氏は、歌の中にある霊性についてしばしば書いておられるが、「長崎ぶらぶら節」の中で、歌とは「降りてくる」ものだというような言い方をしている。つまり真の歌とは「降りモノ」で、その"innspired"された真の歌を「長崎ぶらぶら節」という地方の民謡の中に見出す
芸術家が、突然創作ができなくなる時、「才能の枯渇」という言い方がなされるが、それは芸術家にインスピレーションが沸かなくなったことを意味し、もっといえば「神が去った」ということを意味する。
"Inspired work"こそが、真の芸術として時間の風雪をたえていく。
それがただ単に人情や情緒に訴えるだけのものならゴマンと存在し、歴史の波間に消え去っていったであろう。

デジタル技術が最高度に本モノに忠実な画像を実現したとしても、どうしても伝えることがえきない要素が残る。
それが、この"Inspired"された要素なのである

つまり高いレベルでいうならば、デジタル技術では「本モノ」を伝えることができないのだ

先述したようにデジタル技術が部屋の中で自然を再現できるといっても、自然という"inspired"された空間が宿す力までも写し取ることはできない。
地デジは「自然の美しさ」を画像で伝えても、例えば伊勢や高千穂で感じる「自然の力」までも伝えることができるだろうか。
それは、そういうスポットに身を置き「浴する」しかない。

本モノとそうでないモノとの究極の判定基準をいえば、本モノとは「降りモノ」なのであり、そうでないものとは「降らないモノ」である。
そして、地デジ放送を含むデジタル世界の画像がどんなに美しく見えても「降らないモノ」の世界でしかない。