赤字国債というパンドラ

財政法4条に「公債不発行の原則」がある。ところが日本のGDP500兆円を上回る600兆円ほどの公債残高つまり借金がある。債務比率120%(600/500)、金利3パーセントで計算するとGDPの3.6%(120×0.03)の利払い総額18兆円、国民一人あたりに換算すると年間15万円を利払いにあてなければならない。「公債不発行の原則」があるのに、一体なぜこんな事態に陥ったのか。
特例が設けられそれが慣例化したからである。ある意味で日本人の原則に対するルーズさ、よく解釈すれば「状況倫理」つまり原則を変えて状況の方に合わせてしまう傾向を物語っている。

ところで、芸術は爆発だ!の岡本太郎氏の母上・岡本かの子は、「或る男の恋文書式」という実に奇抜な小説を書いている。
ある男が、自分に振り向いてくれない女性にラブレターを書くが、そのラブレターには「せめてこれくらいの内容のラブレターを自分に書いて欲しい」という内容をそのまま書いた手紙である。つまり男性が女性になり変って「自分あてのラブレター」を書き、しかもそれを女性に渡したのだ。
その小説は、ラブレターをもらった女性の唇に微笑みがあったと結んであり、女性がその後どういう返事を男性にしたのかは書いてはない。
恋おおき女・岡本かの子からすれば、「こんな面白い男がいたらいいな」ぐらいの気持ちでこの物語を書いたのだろう。
もし女性の方が男性になり変わって自分には「こういう返信が欲しい」という内容を書いて出したら結構ロマンチックかもしれないが、「実はこんな返事を書くつもりだった」と、通信教育の先生のごとく赤く添削して男性の手紙をそのまま返却したりしたら、男性にとってさぞやキツイことにもなりそうだ。
ともあれ、人が自分の気持ちをインパクトをもって伝えるには色々と工夫や方法があるにせよ、やり様によっては人の心に「潤い」をもたらすし、下手をすると「殺伐」とした気持ちにさせられる
自分宛の仮想ラブレタ-は、国民が「自分宛」に求める便益でもあり「自分宛」に残す借金のようでもあり、そうした国債発行で建設されたであろう道路、公園、公共施設などいわゆる「ハコモノ」を見ると、「自分宛」である分なおさら潤いを感じたり無残な気分にさせられることが多くある。

人が誰かに心を伝えるには上手な金の使い方が重要だが、個人も国民も有難く思える使い道もあるし一方、何でこんなもん作ったなかとガックリする使い道もある。
経済学の主要なテーマひとつは、できるだけみんなが満足できるような資源の使い道を考えることであるが、国債費(政府の国民への借金返済費)が世界最高水準であり、少子高齢化が世界最高水準で急激に進行する日本にすれば、今日の大きな経済問題は「世代間の資源配分」であるといってよい
「世代」幅を長くとって考えると、まだ「生れぬ世代」は資源配分の決定には関与できないので、何を将来に残すか誰が負担するかは「今の世代」だけで決定することになる
実はこういう単純な事実の中に「国債費」増大の主要な原因がある。
国債を発行して国民から借金した金で投資して何らかの「形あるもの」を次の世代に残していく場合に、日本では最低限のインフラは充実しているので、今度はその中身が将来世代にインパクトあるもの、つまり人の役にたったり心を潤したりすることが望まれる。
最近かなり撤去されたが、全国各地に「歩道橋」が作られた時期があった。「交通安全」と銘打って作られたものであったが、今日のバリアフリーの観点から見ても一部を除いてまったく無駄な投資であった。
これこそ将来世代(つまり我々)から赤ペンでXをつけられて返却をされそうな失策であった。また年金基金をもとに全国につくられたグリ-ンピア施設の不人気も目に余るものであった。
ところで政府は必要なお金を税金で集めるのが困難な場合に国民から借金する、すなわち国債を発行するのだが国債の返済はいずれ将来世代が税金で返済しなければならない。
単純化していうと、親父の借金の返済は子供が税金の形で支払うことになる。
もっといえば将来の税金を前倒しして今日の世代が使っているわけだ。だから借金の内容が、親父が酒代に使ったか農地の整備に使ったかで、子供の心が潤うか殺伐となるかで大きな違いがでてくる。
要するに金の使い道が将来にわたり使用利益をもたらす設備を作る「建設国債」ならば、借金もまだ善玉で収まるが、政府歳入の赤字をうめるためだけの「赤字国債」ならば、その借金は悪玉と化す可能性もある。この場合借金する前に「支出削減」に充分に努めるのがスジだろう。
麻生内閣の補正予算の場合には、政府の雇用対策なり失業対策なしで人々は生き延びるこはできないので、将来世代へ負担や資源配分などを考える余裕はないし、政権与党もその必要に応えなければ次の選挙を勝ち抜けない。
ただ赤字国債により集めたお金が「景気浮揚」に効果的に使われるのならば、それは将来の所得を上昇させることになるので租税の自然増収が見込める「善玉」ともなりうるが、なにしろ赤字を埋めるための国債という性質上それほど景気浮揚は見込めないのだ。
「建設国債」のように、国債がインフラなどの投資に用いられる性格のものであるならば、投資の何倍かの所得増をもたらし、租税の自然増収が十分にみこめるが、定額給付金などは消費刺激にはなるものの大きな景気効果は見込めない。
もともと、国債の大量の発行は市場における金利をあげ民間投資へのマイナス効果さえ与える危険もあり、全体としての景気浮揚効果には疑問があるのだ。
もっとも、今日の麻生内閣の補正予算に基づく「グリーンディール政策」という名のもとに、エコカー普及促進のために補助金をだす部分は、ある程度の景気浮揚効果が期待されているようだ。
日本では、1965年に東京オリンピック後の景気後退で「補正予算」を組んで戦後はじめて2290億円の赤字国債が発行された。また石油ショック後の1975年の「予算編成」で2兆905億円の「赤字国債」が発行されることになった
石油ショックという未曽有の出来事に最初から歳入欠損を見越して予算をつくり、いわゆる「赤字国債」を発行したが、その際に財政法の特例という意味で、赤字国債は正式には「特例国債」という。
その後、特例国債は元本と利子の支払いのための国債費がなんと国家予算支出の3割をしめるまで増大し、財政特例法により国債は「償還期限」を明示していたっものの返せなくなることが明白となり、1985年それまでの償還期限を一律に廃止した赤字国債が発行されたのである。

岡本かの子の「或る男の恋文書式」からもうひとつ経済的寓意をやや強引にくみとると、この男があまりにも女性の気持ちを読み取り仮想「自分宛ラブレター」を女性に出したりしたとしたら、女性はもはや返事を書くスベがないかもしれない。つまりその男性が書いた以上のものを女性が書けないからだ。
経済政策当局者がしばしば経済政策の不能感を抱くのは、人々が経済政策の実行をあらかじめ予想して行動し経済政策が効果をもたらさない、要するにスベッてしまうことだ。
政府と人々の情報の質量に大きな格差がない場合、政策効果が減退するのはマネタリストなどの主張である。つまり人々は政府の対応を「織り込んで」行動するからである。
赤字国債による公共投資で景気拡大をはかるというケインズの処方箋は、大不況時代に功を奏したが、当時と今日の大きな条件の違いはこうした「情報格差」の面だけではなく、景気浮揚策をはかる際に建設会社や特殊法人との密接な関係(既得権益や利権構造)ができてしまい、簡単には仕事を減らすことができなくなっているという側面もある。このことがさらに財政赤字を拡大する原因ともなる。
つまり国債は善玉へも悪玉へと転じ得るのだが、将来世代がその発行に発言が出来ない以上、どうしても「今を救う」ことに傾いてしまう。現時点での利益に傾く国債発行は、将来世代とて同じことを繰り返すために「破綻」が先延ばしになるだけだ。
日本での赤字国債発行の慣例化の因となった石油ショックは、具体的にはイランの石油の「国有化」としてあらわれた。そこでもし人々に石油が「国有化」される予想があったとしたら、出来るだけ早く石油を掘り出そうとするだろう。
それと同じように、ある政府与党の下で多数派をしめる人々がいたとして、その人々が長く将来の政権下で多数派をしめる保証などはないために、自分達が支持する政権党の下でできるだけの利益を「掘り出そう」とするだろう。(負担は次世代にまわす)
こうみると赤字国債の増大は法則のようであり、だからこそ財政法4条の「公債不発行の原則」が定めてあるのだ。振り返るに1965年の戦後初の赤字国債の発行は、「パンドラの箱」を開けてしまったということか。