幸福のベクトル

一般に、失われて初めてその価値に気が付く事が多い。「人間の尊厳」も失われて初めて自覚されるのではなかろうか。数年前、病院の集中治療室に通った時に機械に埋もれて何とか生きている人々を見て「人間の尊厳」を初めて実感できたような気がした。
記憶が定かではないが、水俣病の発見に次のようなエピソードがあった。水俣ではすでに猫が狂い死にするなどの不可解な現象が起きていた。
ある町医者は、体の不調を訴えにくる患者を前に診断したことのない症状に不安を抱いていた。ある日、町医者が友人と囲碁をうっていた時に、友人がギリシア神話の話をした。
村の人々の誰もが憧憬を抱く美しい湖に毒が投げ込まれ、村の人々がおかされていく話であった。
町医者はこの話に不安を抱き、熊本大学医学部に相談した。それが熊本大学医学部を中心とした調査により水俣病発見につながった。
魚という「海の幸」が有機水銀を含み、このような災いの原因となるとは皮肉である。
水俣病・加害者側の罪の深さは、当初調査した東大医学が企業側に都合の良くデータをまとめ、当時の超一流企業チッソの幹部は東大出身者が多く、官僚ともども有機水銀による汚染を隠蔽したことである。
これによって水俣病の発見が遅れ、救われるべき多くの命が失われた。成長と環境、中央と地方、官僚と草の根、人間の尊さと浅ましさなど、様々な問題を提起したシンボリックな事件であったと思う。

日本国憲法13条に「幸福追求権」があるが、「幸福を追及する権利」などというものをわざわざ規定するとは奇妙な権利である。幸せの追及なんてわざわざ憲法で定めなくても、生命や財産の所有以上に当たり前の権利ではないのか、と思ったからである。
学問の自由、信教の自由、表現の自由、結社の自由いずれも「幸福の追求の権利」であるのだし、わざわざこのような具体性をかく権利を憲法に取り入れる必要が、どこにあったのだろうかと思った。
日本国憲法は、欧米の憲法のエキスを集大成したような「マッカーサー草案」をベースとして作られたものであるから、1776年アメリカ独立宣言「生命、自由および幸福の追求」にそれがあり、さらにその淵源であるフランス人権宣言にもあった。
「幸福を追求する権利」のことを考えていると、古代ギリシアの「知られざる神」というものを思い浮かべた
古代ギリシアは多神教の社会で、美の神、戦いの神、自然の神など色々あって、人々はそれぞれの願いをもってそれぞれの神々に願ったのである。
憲法条文の「権利」のところにこうした「神々」と入れ替えて、学問の神に、表現の神に、結社の神にすると、人々はそれぞれの神に祈りつつ「幸せ」を引き出すということになる。
ただギリシア人にとって自分たちがまだ知らない神様がいるかもしれないということで、その他諸々をまとめて「知られざる神」として祭壇をもうけたそうだ
日本国憲法の「幸福追求の権利」も、将来日本国憲法に羅列された数々の人権では対応できない「知られざる権利」をひとまとめにして、「幸福追求の権利」とした感がある。
憲法の解説書によると、こういう権利のことを「包括的権利」というらしい。
実際に世の中の進展とともに、この「幸福追及権」を根拠に、「環境権」「プライバシーの権利」「知る権利」「肖像権」「日照権」「眺望権」「嫌煙権」 「愛煙権」「情報権」「アクセス権」「平和的生存権」 などが派生し主張されるようになった。
こうして「人権のインフレ状態」がおきているわけだが、判例上認められている権利は「肖像権」だけだという。
ただ最近、水俣病というような甚大な人権侵害を前に、一体どんな権利を持ち出せばよいのだろうと思う時に、意外と「幸福を追及する権利」というのは、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」つまり「生存権」(25条)よりも、はるかにふさわしいのではないかと思うようになった。
なぜなら水俣病の被害者の場合、幸福を実現するどころではなく、その前提となる幸せの「追求」そのものを奪われているからである
一般に人権規定の曖昧さは、権利保護の曖昧さにも繋がるので、憲法上に明記されなければ、政府の恣意的運用を許す可能性がある。
確かに「幸福追求の権利」は曖昧な規定であるには違いないが、この権利の曖昧性は裏を返せば「包括性」でもあり、被害状況の広範さをカバーできるという側面もあるのではないかと思った。

幸福追求権から派生する多様な権利の主張、つまり過度なあれやこれやの権利の主張は、ある意味で「ミーイズム」が社会に浸透していることを端的に示しているではないかと思う。
ただ最近人々の意識が変わりつつあることを感じることもある。いい大学へ、いい会社に、とがむしゃらに頑張った人が、その努力の成果を実際に手にしてみた時、それがとても頼りない物であったり、たわいもない物であった事を知った時、失われた物や犠牲にしてきた事の大切さに気がつく。
意識が自分にばかり集中すると人間はとても傷つきやすくなるらしいが、「幸せのベクトル」があまりにも自分自身に向き過ぎてきたことを知ることは、貴重な体験なのだ。
自分に失われたものに気づくということは、「人間尊厳」に目覚めるということである。そして「人間の尊厳」をとり戻したいと思う時、人は他者の為に何ができるかという目覚的に考えるめ始めるのではなかろうかと思う。
一方、「ひきこもり」現象は、何かの失望や傷つく体験により、自意識満タンのまま「幸せのベクトル」が自分自身に突き刺さったまま、抜け出せない状況にあるのではないだろうか
微力ではあっても自分は他者に何ができるかという「幸せのベクトル」の方向転換ができれば、人は「新生」できると思う。

ところでアメリカ人カメラマンのユージン・スミスが捉えた上村智子さん(当時15歳)の写真は、浴槽で人間を奪われたかにも見える娘をいとしむように抱えている母親の姿を写し、世界に衝撃を与えた。
ただその母親の顔は、なぜか崇高に輝いていた。
上村智子さんは胎児の時に、母親の毒をすべて吸い取って生まれてきたという。上村智子さんは1977年、21歳で亡くなっている。