キリスト教的多神教

神がその一人子イエス・キリストを派遣し、イエスは十字架にかかって人間の罪を贖ったということ。
イエスは死後復活し、しばらくの間弟子達の間に姿を表し天にのぼり聖霊が下り、エルサレムにて初代教会が誕生したということ。
以上二点が、一般的なキリスト教と教会の始まりのエッセンスである。
ペテロやパウロの伝道によりイエスの教えは地中海世界、ロ-マに広がりカトリック教会ができた。そして16世紀に宗教改革がおこりカトリックの腐敗・堕落を攻撃しプロテスタントが誕生した。
その間、教父哲学やらスコラ哲学などのキリスト教神学が生まれたが、それだけの長大な思想の営みにもかかわらず、キリスト教会、(少なくとも私が高校で学んだプロテスタントも、大学で学んだカトリックも)初歩的で重大な問題にきちんと答えられないという現実がある。
それは、神は唯一であり信者はイエスを「Lord」すなわち「わが主よ」といいながら、なお天に神がいるというこの「分裂感」を一体どうしてくれる。
神(ヤハゥエ)も神の子(イエス)も一体という教説があるが、その一体の内実は不明で、こうした「分裂感」は三位一体などという教説で解消できるわけでもない。
もっと身近にいえば、信者は神あるいは、神の子イエスのどちらの側に祈ればよいのか。
カトリックは加えてマリアを「聖母」としている為、信者はマリア様に願い事をしているそうだ。
キリスト教は唯一神宗教どころか、まるで多神教ではないか
実は、キリスト教以前のヨ-ロッパでは、キリスト教を布教しようとしたところ、各地には女神崇拝が残っていた。
どうしても土着の神を人々から取り上げることができないとわかると、人々が崇拝していた女神をマリアとすり替えてしまったのだ。
これによって困難を極めていた改宗が一気に楽になったのだ。
征服者が強制するイエス崇拝はいやだが、女神に似たマリアならキリスト教徒になるということでマリア信仰が残っているのである。
カトリック教会は信者を困惑させ問題をたくさん抱えこんでいる。(それとも困惑しないのかも)
たがエルサレムに誕生した初代教会、つまりイエスの弟子達の作った教会の内容を正しく受け継ぎ実行している教会のみが、こうした問題からまぬがれ、実際に「神は唯一や否や」という問題に真正面から答えてくれた


パレスチナ生まれのキリスト教は、ヨ-ロッパにひろがるにつれ、在来の神々と時に戦い時に取り込み、本来のキリスト教とは異質なものとして形成されていった。(このことがなかなか一般に理解されていない)
キリスト教以前の世界に広がっていた在来宗教は、日本と同じように多神教信仰だったが、日本のそれとはかなりの違いがあり、その違いこそが現存のヨ-ロッパにおけるキリスト教を性格づけているともいえる。
山や海や森や泉を、そのものではなくてそこに神が宿るが故に崇拝するという心性は、古代ギリシア人やゲルマン人にも認められた。
中世以降の西洋世界を支配することになったキリスト教から見れば、これは唯一神の造物主がこの世界を創ったという創造の教義から外れた、異教的自然観・世界観ということになる。
従って異教を制圧して、これをキリスト教的世界観の下に統一支配しようという宣教活動が強力に及んでいけば、欧州の山野に潜む異教の神々は征伐され、抹消されたり追放されたりして、古代異教民族の自然物崇拝の心性は圧伏されてしまう。
しかし、日本の場合のように、崇拝の対象が海、山、森、泉という自然にある「驚異」や「美しさ」が崇拝のインセンティブならば、造物主による創造の産物に対する自然崇拝は、一神教からの強い教理的摩擦は受けないでもすむ。
日本人は山や海にやどる「霊」を信仰しているわけではないので、創造主がくだす「聖霊」とは深く対決することはなかった。
本居宣長は、何か尋常ならざる「すぐれた」力をそなえていて、それに対して恐れかしこまざるを得ないような対象を「カミ」とよんだ。
日本人は海や山を神と呼んだ例もあるが、これは別段海山にひそむ霊をさして神と称したのではなく、海や山そのものが畏敬をもたらすものとして、信仰されたのだ。
日本人には、自然の存在または自然の現象それ自体が神でありうるのだ。
これに対してキリスト教以前の森の宗教は、つまりギリシア人、ゲルマン人、ケルト人などの精神世界に満ち満ちていた妖精や精霊や悪魔の類で、それらの中には固有の名前がついたものもあり、キリスト教はそれらを圧伏することによって広がっていったのである。
この文脈でいうと、中世ヨ-ロッパでおきた魔女狩りは必然的な出来事だといってよい。
世界の大ベストセラ-「ダビンチ・コード」はそのことをとても明確に教えてくれた。
ヨ-ロッパのキリスト教は異教の神々を「模様替え」して、キリスト教の配下においたといってよいかもしれない。
異教"Pagan"という言葉の語源を溯ると、ラテン語の"paganus"すなわち「田舎に住むもの」という意味の語にたどりつく。"pagan"は文字通りキリスト教が行き渡らない僻地の人々、古い土着の自然崇拝を守る人々のことだった。
カトリック教会はこうした田舎の村"village"に住む人達を恐れたので、かつては単に「村人」を表す語であった"villain"が、「ならずもの」という意味に変化してしまったのである。

ところで、キリスト教教理の中核「三位一体論」は三つにして一つとう意味であるから、それ自体に多神教的要素を含んでいる。
イエスが神の子ならば父親がいなければならない。ところが父なる神と子なる神が二人いることになるので、一神教すなわち聖書の大前提たる「神は唯一なり」は成り立たなくなる。そこで考え出されたのが、「三位一体論」である。
ギリシア哲学の論理(アリストテレス哲学)をかりて、神と神の子と聖霊は同じものにして、なんとか一神教の論理を貫徹しようとした。
しかし、父と子が同じという理論はどうにも実体がとらえにくく、キリスト教の中でも東方系キリスト教の諸派はこれを認めなかった。
彼らはイエス・キリストを、人間の属性をもたない神であると信じたのである。
この系統がいまもエジプトの人口の一割以上を占めるコプト派である。また、エチオピアで正統とよばれるキリスト教徒も、コプト派と同じキリスト単性論の流れに属している。
また東方諸派の中のアルメニア派はカトリックやギリシア正教とはちがった形で「三位一体」をみとめ、「ロゴス」である神が聖霊によって受肉したことを承認している。
アルメニア教会の歴史は古く、アルメニアはキリスト教を国教とした最初の国である
5世紀にコンスタンチノ-プルの総主教をつとめたネストリウスは、逆にキリストは人間であると考えた。キリストは神に召された存在にはちがいないにせよ、いわば神の「養子」としての人間である。
ネストリウスは異端として司教の地位を逐われ、451年にエジプトで死んでいる。
ネストリウス派の信者たちは東方にのがれ、一部は唐にまできている。
今日、ネストリウスの教えはイラン、イラク、トルコの三カ国に分布するクルド族の間に残っている。
実はこのネストリウス派キリスト教(景教)を日本に持ち込んだのが中国から渡来した秦氏で、京都の開拓者であった彼らは平安京遷都の黒幕といわれている。
平安京の名前がエルサレム(平和の都)と同じであるのも、彼らの存在を感じさせる。
唐に留学した空海もネストリウス派キリスト教に接触し、それをベ-ルに覆って日本に持ち込んでいる。
実は、学校の教科書と違ってザビエル以前にキリスト教はすでに日本に伝わっていた。
ところでイスラム教を開いたムハンマドは、若い頃ダマスカスで学び、東方キリスト教の影響を強く受けたようである。
ムハンマドは「三位一体論」は間違っていると考え、ネストリウス派のいうように、キリストは最大最後の預言者だったと解釈した。

以上の経過で見たように、325年ニケ-ア公会議で正統とされた「三位一体論」は、それほど確固たる教説ではなさそうである。
ニケ-ア公会議を主宰したのはロ-マ皇帝コンスタンティヌス帝であり、ロ-マでキリスト教を公認した人として有名である。
しかしこの人が犯した過誤はとてつもなく大きいといわざるをえない。
コンスタンティヌス帝は、生涯を通じて異教徒で今際の時に洗礼をうけたにすぎない。
当時のロ-マの国教は太陽崇拝であった。コンスタンティヌスはその大神官であった。
折りしも、キリスト教徒と異教徒の間で宗教戦争が勃発しそうな勢いだった。
そこで、元来キリスト教はユダヤ教の安息日である土曜日を聖別していたが、コンスタンティヌス帝が、異教徒の尊ぶ「太陽の日」と一致するように変更したのである。
今日、日曜日に教会で礼拝する人々でも、この曜日が異教の太陽神を祝福する聖なる曜日"Sunday"に因むことを知る人は少ない。
日曜日はキリスト復活の日、すなわち活動すべき日であり、安息の日ではなく、まして聖なる日でもない。
さてコンスタンティヌス帝にぴったりの聖書の預言がある。
ダニエル書第7章25節「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法を変えることを望む。」
律法を変えるとは、「十戒」の第四戒「安息日を聖とせよ」(出エジプト20章8節)をネジ曲げたということである。
人類は早くも紀元4世紀に、天地創造の摂理(神が天地を創造し第七日目に休まれた)を見失った。
その元凶がヨ-ロッパで異教と習合(妥協)しつつ形成されたキリスト教会だった。