帰還者たち

「帰還」という言葉はそれににまつわる幾多の場面を想起するため、深山を彩る紅葉のような深さと多彩な重甚さを湛えている。
「帰還」とは表面的には物理的な移動であるにせよ、心の奥深くまで陰影を刻む出来事なのにちがいない。
そして意味をやや拡大して考えてみると、最近台頭している宗教的民族主義にせよ原点に立ち帰ろうという意味では「精神的帰還」ともいえる。そのようなことを思いつつ様々な歴史的「帰還」の局面を思い浮かべた。

世界史的にみると、2000年来国を失ったユダヤ人の「パレスチナ帰還」の歴史的な意義はおおきい。
実はパレスチナ帰還のユダヤ人の多くがソビエト領からの帰還であり、イスラエルで「キブツ」といわれる共産主義的な農場が作られたのもそのためである。
初めイスラエル国内にキブツを創設した人々は財産を持たず、何ら資金も無い人々で、このような状態でキブツを結成して働き始めたのでキブツは財産をもつことになったが、これはあくまでもキブツ全体としての財産であって、個人の財産ではなかった。
金持ちのユダヤ人達はもっぱら実業面に興味を持ち、キブツで働くことはなくキブツに寄付するということもなかった。
そしてベングリオンやゴルダ・メイヤ-らの戦後イスラエルのリ-ダ-の多くはこのキブツから誕生するのである。リ-ダ-達はは誰よりも土に親しんだ人々であった。
このような革命によるのではない「自発的な共産主義」は、原始キリスト教社会に最も純粋な形で見出すことができる
「信者達は皆すべての物を共にし、資産と所有とを売り、各人の用に従いて分け与え、日々、心を一つにして弛みなく宮に居り、家にてパンをさき、喜びと真心をもって食事をなし、神を賛美してすべての民に喜ばれた」(使徒行伝第2章)
ところで旧ソ連と東欧諸国そして北朝鮮にみられる社会主義は、共産主義というよりもむしろ全体主義というべきものだろう
日本史で「帰還」という言葉で思い浮かぶのは、出征兵士の戦地からの帰還である。
京都府舞鶴港で戦地から帰還する息子を待つ「岸壁の母」の話、高度経済成長時代の横井庄一さんや小野田寛郎さんの南洋のジャングルからの「遅れてきた」帰還も忘れられない。
1956年日ソ国交回復によりシベリアから帰還した旧日本兵のことも思い出す。小説「不毛地帯」のモデルとなった元陸軍参謀瀬島龍三氏の帰還とその後の商社マン(伊藤忠商事副社長)としての新生のドラマは、この人物に対する毀誉褒貶は様々あれ、やはり胸をうつものがある。
アルチョムの収容所に抑留されていた吉田正氏がセメント袋の裏に書き止めてできた曲が1958年のヒット曲「異国の丘」であった。吉田正氏は後に「東京ナイトクラブ」「いつでも夢を」「子連れ狼」などのヒット曲を生み出し国民栄誉賞を授与されている。
満州からの帰還は、藤原ていの「流れる星は生きている」やなかにし礼「赤い月」などの実録小説により知られる。 藤原ていの夫は満州の測候所(気象台)につとめていたが、妻の作品の成功(ベストセラ-)に刺激されて自らもペンを執るようになり、ペンネ-ムを新田次郎とした。その長男が「国家の品格」の数学者・藤原正彦である。
ダイエ-元社長中内功氏に見るがごとく、太平洋戦争で生死を彷徨いながらも南洋からの帰還後に成功した経営者達もいる。博多でメンタイコの製造に成功した川原俊夫氏もそうで、彼らの「ビジネス哲学」には「戦火や飢餓からの帰還」があった、といってよい。
「帰還」ということが、最も皮肉な形で表れたのが日本におけるキリシタンの海外からの帰還であった。キリシタン代表(天正遣欧少年使節)としてロ-マに渡ってロ-マ法王にまで謁見したの四人の少年達の帰還とその後の弾圧そして、仙台藩からロ-マに派遣された慶長遣欧使節・仙台藩出身の支倉常長ら一行はロ-マ法王とも謁見し、凱旋帰国のはずが「鎖国令」により「歓迎されざる帰還」となってしまった。その帰国後の悲劇的人生については、遠藤周作氏がいくつかのエッセイで書いている。
その他の帰還として思い浮かぶのが映画「幸せの黄色いハンカチ」である。
この映画は些細な暴力事件による過ちから刑務所暮らしをした男の話である。刑務所からシャバに帰還しても、果たして自分を妻は待ってくれているだろうか、と自宅の前に掲げられるかもしれない「黄色いハンカチ」に一縷の望みをつなぐ男の役を高倉健が演じた。
また、立花隆は宇宙飛行士のインタビュ-記録を「宇宙からの帰還」という本にしたが、宇宙体験が、多くの飛行士のそれまでの人生観をまったく変えたという意味では、あの世からの帰還を意味する「臨死体験」もそれに近い。女優シャリ-ン・マクレ-ンは、自らの人生観を180度変えた「臨死体験」についての著書を残している。こうした帰還を「実存的帰還」とよぶのはいかがでしょう。

帰還した人々の感情には、絶望と希望、廃墟と建設、衰退と新生など色々な思いが交錯している。
帰還した人々の気持ちは、それを受け入れる人々の気持ちに大きく左右される。そして全く同じ自然の風景にせよ、自分自身が成長したり変化するなかですっかり違ったものとして映るのである。
ところで、「帰還」というものを「山椒大夫」や「雨月物語」で胸をえぐるように描いたのは映画監督溝口健二である。「山椒大夫」では人攫いの罠にかかり豪族山椒大夫の許に売られて、母親と離れ離れとなった厨子王と安寿の兄妹を描く。奴隷となった二人は過酷な労働を課せられながらも、母親との再会を望む日々を送る。それから十年、大きくなった二人は依然として奴隷の境遇のままであったが、ある日、新しく買われた奴隷が口ずさむ唄に、自分たちの名前が呼ばれているのを耳にする。由来を尋ねると、子供を攫われた自分たちの母親の叫びであることがわかり、二人は遂に脱走を決意する。
ちなみに「山椒大夫」は、日本史で勉強する「荘園」の姿を絶妙に描いており、「荘園」というものがピンとこない人々には絶好の視聴覚教材としておすすめです。
溝口健二監督作品はなぜ「胸をつく」のか、それは監督自身の人生をかなり色濃く反映しているからである
溝口監督の作品「雨月物語」では、壮絶ともいえる帰還の姿を描き、一方で人間性への信頼や新生への期待をも描いている。
都へでていった陶工(森雅之)が、女性(京マチ子)に見入られ我が家をわすれて享楽にふける。その間家で待つ妻(田中絹代)は雑兵の手にかかって死んでしまう。
その事実を全く知らぬまま、陶工は僧に助けられ、翻然としてくにの我が家へ帰る。
「亡霊となった妻」は夫を待っており優しく迎える。この妻を演じたのは女優・田中絹代で、その演技(演出)は楚々としてすばらしい。
なぜならこのシ-ンは溝口監督自身の発狂した妻へのレクイエムともなっているからだ。陶工演じる森雅之は、淫楽に身をやつしはっと我に返った溝口監督自身なのだ。
何もいわず何も知らない夫を優しく迎え入れる妻の夢とも現(うつつ)ともいわれぬ「潔さ」が怖い。

私は、溝口作品「雨月物語」により聖書の「放蕩息子の帰還」(ルカ15章)を思い浮かべた。
父親の元から自由になりたいとよその町にでかけ放蕩に身をやつし身代を使い尽くした子供がふと我に返る。「父の家に帰ろう。父の家にはすべてがある」
それでも息子は思い悩む。「父はこんな放蕩息子を温かくむかえいれてくれるでろうか」と。そしてもし父に受け入れてもらえるならば、父の言うとおり豚の世話でも何でもしようと「帰還」へと旅立つ。
ところが息子の心配は全くの杞憂に終わった。それどころか父親は最高のもてなしをもって「失われた息子」を迎え入れるのである。
「放蕩息子の帰還」はたとえ話である。だが「放蕩息子」を単なる遊び人ととらえるか、人間一般をさすものとらえるかで、全くその解釈は異なってくる。