かたちと本質

菊池寛が書いた「形」という小説がある。数々の戦功をあげた人物が、知り合いの若武者の初陣に名器といわれた兜を貸し別の兜を身に着けて戦う事になるが、いつもと勝手が違うことに気づく。
今までは怖じまどっていた敵が恐れる気配もなく襲いかかり、己の力の源泉が兜という「形」であったことにはじめて気づく。それに気づいた時、武者は体を射抜かれ馬から崩れ落ちたという話である。
この話は「形」が意外に大きな力をもつことを教えてくれる。形にこだわり本質に蔑ろにするという言葉があるように、形(または形式)と本質を対立するものと捉えがちであるが、形にはカタチ以上の何かがある
古代ギリシアの哲学者・プラトンは、事物を「形相」と「資料」にわけて考察した。そして物事の本質を「形相」とし、資料はとりかえ可能なものとした。
例えば、机の本質は形にあり素材たる木にはない。形を変えると机の本質は失われるのに、資料すなわち素材は木ではなくスチールでもプラスチックでもよい。
プラトンの思想を充分に解するものではないが、物事の本質を「機能」として見ると、本質は形にこそあらわれるといってもよい
机は人間の被造物であるから、机の本質は人間からみた机の機能にあらわれる。机が機能を果たすためには、やはりその形こそが重要なのだ。
動物の身体は、進化の過程で驚くほど「生存」にかなうように形どられていき、その行動も「種の保存」という目的にパタ-ン化しているように見える。
例えば、チーターは快速で走るようにしなやかな体にできているし、尻尾も逃げる獲物が急速に方向を変えた時に即座にバランスをとるのにちょうどよい大きさとなっている。
カザフスタンに住むサイガという牛と鹿の中間のような風貌の動物は、鼻がでかく漫画のような顔をしているが、昼間摂氏50度にもなる草原で熱する血をそのまま頭に送っては脳がやられるため、大きな鼻の空洞で体の血液を一旦冷やして脳に送り込むために鼻が大きくなったのだそうだ。
動物の形にはムダがない。つまり、モノや動物の本質(つまり機能)は形となって表れ出でるのである。
人間も寒冷地の人の顔は、体温を体から逃さないように顔は細く眼も細く口も小さくなる一方、温暖地の人は熱を逃がすのに適するように、顔は平べったく眼も大きく口も大きくなっている。
だが、人間存在は「種の保存」といった一般的目的を措定するのは困難である。むしろ人間は「種の保存」に反することを数多くやる
人間は「生存」よりも「死」に傾きがちな行動も多く、不摂生をしたりしてメタボになったりして生存に適した体の形を壊しがちである。人間はどこか正常な進化のプロセスから逸脱しているみたいだ。
動物どうしの戦いは自分の力を誇示し威嚇しあって決着をつける。決着がどうしてもつかなければ戦ってはみるが、力の優劣を見極めたらあっさりと戦いをやめるので、一般に死にいたるまでには至らない。
しかし人間は戦いの趨勢がはっきり見えても相手を滅ぼしつくすまで、他方滅び去るまでも戦いをやめない。これは明らかに「種の保存」要請から離れるものであり、体の形だけではなく行動も「種の保存」に合致していないようだ。
つまり人間の本質を動物のように「種の保存」といった何らかの目的に奉仕する機能としてのみ捉えることには無理があるということだ
ギリシア哲学には「形相」以外にも「イデア」「プシケー」「ロゴス」といった言葉があるが、「形相」という言葉だけでは語りつくせないのが人間の本質ということだろう。

人間は物のようにある目的をもって生まれる(作られる)ものではないので、人間の本質は「未知」から出発せざるをえない。自らがその生の意義を見つけそれを個々の人間存在の本質としなければならない。
サルトルに「実存は本質に先立つ」という言葉があるが、政治や社会への投企や参加(アンガージュ)によって自らの本質を獲得しなければならない。サルトルはそれこそが人間の実存の姿だという。
サルトルの思想には何か違和感をおぼえるが、それよりも芸術であれ技術であれスポーツであれ、物事を徹底的に極めるところに ものごとの「本質」との出会いがあるのではないか。
ベートーベンは、芸術は神の頂きに近づける、ただしそれは一瞬のことにすぎないという意味のことを言っている。
しかし普通の人間がそこに達する道を切り開き究めることはとても困難なので、幾多の先人達が「型」とか「形」というものを生みだしたのではないだろうか。
つまり様式化だが、その様式(形式)にのってさえいれば誰でもある程度物事の「本質」(=心)に近づけるところに、「型」や「形」の意味があるのではないかと思う
例えば一般人が「密教の奥儀」に思念によって近づくことは困難であろう。だが確立された「修法」に沿っていけば、ある程度はその本質に近づく可能性がある。
日本で真言密教を確立した空海は、仏とは歴史上の人物ではなく宇宙そのものでありその名は「大日如来」とした。「大日如来」は名前のごとく太陽を象徴した宇宙仏であるが、サンスクリッド名を漢字で音写すると「盧舎那仏」になる。つまりあの奈良東大寺に鎮座する大仏のことである。
この盧舎那仏は釈迦仏陀を人間世界に派遣することによって我々に真理を伝えようとしたが、それだけではなく大宇宙は雄弁に真理を語っているとした。
ただ大日如来が語る真理は人間の言語ではなく、いわば「宇宙語」(=象徴言語)によってしか語れない。
この言語を理解するためには、まずは「真言」を語りその世界に飛び込むことが肝要である。
密教においてはいくつかの「修法」があるが、結局は自らが仏となるという体験をすることなのだ。つまり動作や言葉において釈迦仏陀の真似をするで、そこに「型」や「形」が生じる。
まずは身体の表現である「印契」で、六種拳と十二合掌という二種の手の組み方がある。
次に真言・陀羅尼でいずれも仏陀の言葉であるが、仏陀の言葉は梵語(サンスクリッド語)である。したがって、これは漢語に訳さずに、梵語そのままに唱える。
マンダラというのは仏や菩薩の「全員集合図」であり、大日如来を中心に、一定の原理でもって仏・菩薩・明王を集めて図示したものである
密教の奥儀に到達した人は「潅頂」という洗礼に似た儀式で亜闍梨位をうけ、マンダラに向かって花を投げる。それは各自の念持仏を決めるためで、花が落ちたところの仏・菩薩がその人の守り本尊となるというわけである。
密教はかくも「かたち」に沿った修行をつむことによって、言葉では伝わりえない体験つまり「涅槃」の世界を体験できるという。体験した者しかわからないところが「密教」たる所以だ。

物理的な「形」について興味深いことがベストセラ-小説「ダヴィンチ・コード」に書いてある。
それは、自然界の「かたち」の中には「黄金比」というものがあり、それが1, 618である。 これは 「フィボナッチ数列」から 導き出せる数字である。
1・2・3・5・8・13・21・34・55・89・144・233・377・ 610・987・1597・2584・・・・
その数列は隣り合う二つの項の和が、次の項の値に等しいことで名高いが、隣り合うふたつの項の比がある数へかぎりなく近づいていくという性質も持っている。
その数こそ黄金比、すなわち約1、 618で、黄金比は自然界のいたるところに見られる
いにしえの科学者はこれを「神聖比率」と呼んで崇めた。 世界中どのミツバチの巣を調べても、メスの数をオスの数で割ると、同じ値が得られる。
オウムガイは、軟体動物の頭足類で、殻の中の隔室へ気体を送り込んで浮力を調節するが、螺旋系の直径はそれより90度内側の直径との比率が1、618対1である。
植物の茎に葉がつく配列、昆虫の体の分節、すべてが驚くほど忠実に黄金比を示していた。
ダヴィンチは実際に死体を掘り出して骨格を正確に計測するなどして、人体の神聖な構造を誰よりもよく理解していた。
そしてダヴィンチは人体を形作るさまざまな部分の関係が(平均すると)黄金比になることを初めて実証した。
肩から指先までの長さをはかりそれを肘から指先までの長さで割ると黄金比、腰から床までの長さを、ひざから床までの長さで割る、これも黄金比である。手の指、足の指、背骨の区切れ目なども黄金比である。
まるで人間一人一人が神聖比率の「申し子」みたいに思える。
混沌とした世界の底には、驚くべき秩序が隠されていた
「黄金比」は建築にも生かされパルテノン神殿やピラミッドの建築物はいうに及ばず、バイオリンの孔の位置にも生かされた。
「五芒星」と呼ばれる記号は、さまざまな文化圏で、神聖で魅力的なものとされている。 五芒星のすべての線分は互いに黄金比の関係をなすので、このしるしは神聖比率の究極の表現だといえる。
1、 618は、偶然の域を超えた「わけあり」の比率で万物の創造主によって定められた何かのように思えるのだ。「かたち」は本質の一端を露にしている

ところで日本人にとっての「かたち」ということで思いつくことは、日本人は、神々が煩雑や複雑なものより簡素・平明を好むという信仰を抱いていたように思う。つまり神々は「簡素さ」や「平明さ」にやどるのだ
日本の国旗「日の丸」は薩摩の船に使われた旗を元につくられたそうであるが、あのシンプルなデザインこそ日本人のそうした信仰を表す「形」の代表のようにも思えるのですが、いかがでしょう。