歌謡界の巨星たち

最近、阿久悠・川内康範・三木たかしなど歌謡界の巨匠といわれた人々の死亡記事にふれる機会が多くなり、歌を人生の「命綱」とした(せざるを得なかった)転々の人生に、感動を覚えた。
若い時に味わった無念や無残を「コヤシ」として、最後まで「子供の心」を失わなかった奇跡の華ともえるかもしれない
時代に色をつけたという点で、彼らの存在はとても大きかったように思える。

「おふくろさん」の作詞で有名な川内康範は、小学校を卒業以後、家具屋の店員、製氷工場、製缶工場、炭坑夫などの数々の職業を転々とした。
映画会社で大道具係だった兄を頼って上京し、新聞配達をしながら独学で文学修業を重ねた。日活のビリヤード場に就職したのがきっかけで撮影所に入社する。
やがて東宝に移り、特撮や人形劇映画を担当した。1950年代から1960年代にかけて、多くの原作脚本を手がけた。テレビドラマ「月光仮面」は特に有名で、テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」は、20年間にわたる長寿番組となった。
歌謡曲の作詞家としても、「おふくろさん」以外に「骨まで愛して」「伊勢佐木町ブルース」など数々のヒット曲を生みだした。
一方政界との関わりが深く、海外抑留日本人の帰国運動や戦没者の遺骨引き上げ運動を早くから行った活動家でもあり、この活動を通じて政財界との関わりを持ち、福田赳夫の秘書を務め鈴木善幸元首相、竹下登元首相のブレーンでもあった。

作詞家石坂まさをは幼少の頃より病弱で肺結核を患った。昼間の学校をいくつか受けたがすべて不合格となり、夜間高校に通ったが入学してすぐに血を吐いた。
石坂を歌の世界に導いたのは銭湯に置いてあった本の中の「街のサンドイッチマン」の歌詞であった。落ちこぼれ人生ににもかすかな「希望」があることに力を得て、自分も作詞家になりたいと思うようになった、という。
石坂にとって運命的なことは、浅草の町を「ながし」で歌うハスキーな声の持ち主・阿部純子に出会ったことだった。翌年にはその女性を「藤圭子」の名前でデビューさせた。デビュー曲は「新宿の女」。
石坂氏には小学校の頃より新聞配りをして見慣た新宿の街に生きる女性たち、特に新宿ゴールデン街に生きる夜の女をイメージして詞に書きあげた。
藤圭子は岩手県一関生まれで北海道旭川に移った。両親は旅回りの芸人で浪曲の流しをし、母親は盲目だった。
1967年、音楽関係者が雪まつりに出演した15歳の藤圭子を見て、プロを目指しての上京をすすめた。
一家五人は、藤の歌手デビューを夢見て西日暮里の安アパートに越してきた。両親は錦糸町のネオン街で流しをつづけたが、客はつかず藤の出番となった。
つまり「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞どおりの生活が始まった。
当時、街の「流し」で三曲披露すると客は二百円くれたという。夜7時から12時前後まで約50曲歌うと、すっかり声は嗄れはててアパートに引き揚げる毎日だった。
昼間にプロ歌手のテストをうけたが声が嗄れ過ぎてなかなか合格することができなかった。 そして流しの拠点を錦糸町から浅草に移した時に、石坂との出会いがあった。
石坂の心を当初より捉えていたのは藤圭子よりもむしろその母親だったかもしれない
石坂によれば、目の見えない母親の話を聞くともうダメで、何とか藤を売れる歌手にしなければと心に誓ったという。
石坂にも母親に対してひとしおの思いがあった。石坂は1951年5月東京生まれで父親は映画の看板書きであった。小学校2年の時に父が結核で亡くなり、母親は毎朝早くおきて鉄くずを拾って子供を育て、そのうち駄菓子や開いて針仕事て生計をたてるようになった。
中学2年の時に本当の母親ではないことを知ったが、育ての母はあくまでも実の子のように石坂を育ててくれたという。
石坂は藤の歌に文字通り自分の命を賭け、藤も石坂氏に「命あずけます」というコンビであった、ともいえる。そして18歳の藤圭子が歌った「圭子の夢は夜開く」がレコード大賞新人賞を受賞した。
石坂氏は、歌手「藤圭子」に関していえば、作詞家というよりもプロヂューサー的な仕事をしたと思う。藤のドスのきいた声には浪曲に流れる「怨み」が滲み出ている。
演歌や艶歌という言葉はあったが、藤圭子の歌に「怨歌」という言葉が使われた
石坂は病弱な体を擦り減らしながら夜の街を歩きとおしで「営業」した。そして糖尿病が原因の網膜剥離による左目を失明した。藤の母親と同じく視力を失ったのである。
しかし、石坂がプロデュースした「藤圭子」のイメージとは裏腹に阿部純子は意外とさっぱりした性格ではなかったかと思う。
28歳で歌の道をあっさり捨てたのも、阿部純子が少々「藤圭子」に重さを感じたからではないだろうか。娘の宇多田光の「アッケラカン」はアメリカ育ちだからでではなく、結構母親の性格のDNAを受け継いでいるような感じもする。

作曲家の三木たかしが2009年5月亡くなった。この人が歌手黛ジュンの兄であることはその時に知った。
黛ジュンはハングリーなものを持っている一面、都会っ子の雰囲気が漂った歌手である。
実際のところは、兄妹の家は大変貧しかったという。借金とりが来ると二人で押し入れにこもった。また紙で書いた銀盤をひいて遊んでいたという。
三木たかしは歌手として船村徹に弟子知りするが、船村氏にすすめられ歌手から作曲家に方向転換した。
苦節の末1968年兄が妹に初めて提供した曲「夕月」が初ヒットする。翌年には森山良子の「禁じられた恋」が大ヒットし、1976年には石川さゆりの「津軽海峡冬景色」がレコード大賞受賞曲となった。
兄弟愛といえば、野口五郎兄弟を思い浮かべる。賞が縁遠いといわれた野口になんとか賞をとらせようと兄が曲をつくった。
兄は曲作りに心身を消耗して長期入院を強いられた。そしてできた曲が「私鉄沿線」で、兄弟の執念がつかんだレコード大賞歌唱賞受賞曲となった。
ところで、黛ジュンの「雲にのりたい」の作詞・作曲をしたのは鈴木邦彦(本名、大石良雄)だった
慶応をでて工務店を経営し複数の女性ともつきあい夢多き人生を歩んでいた鈴木だが、東京オリンピックを控えての多忙のなか、突然胸万力で締め付けられるような痛みを覚えた。
近くの病院に運ばれたが、意識はっきりしているのに、歩けない・声が出ない。そして死ぬほどの痛さに見舞われた。交通事故にあったとしか言いようのない状態だったが、原因はわからず医者もすっかりお手上げ状態だった。
「親戚をよんだ方がよい」といわれるほどの瀕死状態となり、家にも帰らず関係が冷えきっていた妻や、付き合っていた複数の女性達も見舞いに来た。
発病から2年あまりも体が動かず天井ばかりを見て暮らし、経営していた工務店も人手に渡さざるをえなくなった。さらに医者から一生の車椅子生活を覚悟せよといわれ、死刑判決でもうけた気持ちとなった。
いままでためた全財産を医療費に使いきり、付き合っていた女性にも自ら別れをつげ、睡眠薬を少しづつため込んで自殺の準備をした。そしてついに大量の睡眠薬を飲んだが未遂に終わった。
以後は死人の生活で鈴木氏の視界にあるのは雲だけだったという。そんな時、たまたま目に触れた週刊誌の記事が浜口庫之助の「作詞教室」だった。
鈴木は生活保護をうけながらも詞作を続けノートは五冊分にもなった。何度か「○○の歌う歌」に応募したが落選し、「黛ジュン歌う歌」に応募した時に、病室で見てくらした雲を題材にした歌詞だった。
その歌詞が「雲にのりたい、やわらかな雲に、のぞみがかぜのように 消えたから」だった。
この曲をきっかけに作曲家のなかにし礼とのコンビで次々にヒット曲を生んでいった。

作詞・作曲家の生涯は、彼らが作ったどの歌の内容よりもドラマチックであると思った。
彼らに残された手持ちのカードは「歌」しかなかったとうことだが、カードを何枚きってもなかなか「幸運のエース」が出てこない、ということがあったのだと思う。
チャップリンは幼き日に親の代役を務めたのが、「喜劇王」のステ-ジの始まりだったが、その即興の演技は生涯の原点となっている
ダイ・ハード(なかなか死なない)というのは、子供心(遊び心)を失わない、ということかと思った