ロックやジャズというものは、抑圧され管理された人の心が強いビートや魂でもって跳ね返すといったある種の抵抗や反逆の表現であったと思う。
ジャズやロックンロールが本来、アメリカの黒人音楽から生まれたものであることも、
支配層の抑圧に対する抵抗の証しということだろう。
ただこういう音楽の才能をビジネスとして大きく売り出し成功にまで至らしめるのは、必ずしも黒人の側ではない。(中東の石油資源が先進国メジャ-に握られていたことを想起させる)
ということはアメリカンドリームの実現も、「伝説」となるに相応しいものにアレンジされていくのではなかろうか、などと思う。
マイケル・ジャクソンの人生は、色々な意味で「アレンジされ続けた人生」だったように思う。彼の人生に悲劇的な相がみえるのは、成功しても「素のままでは居られなかった程度の大きさ」にあるのではないだろうか。
マイケル・ジャクソンの死について思う事は、音楽にも押し寄せるグローバル化にあって、自らの抵抗のエ-トスを断ったところから出発してしまった彼は、得意の「ムーン・ウォーク」する程には、この世界は爽快には歩けなかったに違いない。
マイケルに加えられたアレンジは音楽ばかりではなく、皮膚移植手術や整形にも及び、彼自身その「違和感」を誰よりも「肌」で感じ続け、埋めようにも埋められない「違和感」の中で、ついには翼を折って逝ってしまったという感じがする。
マイケルは、1958年10人兄弟姉妹の8番目として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれた。
父ジョセフ・ジャクソンはUSスティール社の貧しい製鉄所のクレーン操縦士であった。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げたという。財政的に厳しく、母キャサリンはシアーズなどの小売店でパートタイムとして働く事で家計を何とか支えた。
マイケルにとって幼少期の生活体験は、「黒人という壁」に早くから気づかせられるに充分な体験であったに違いない。
父ジョセフは、或る時愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを見つけ、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏が予想外にうまいことに気がついた。
これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれないと、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意した。
グループを結成してはじめてナイトクラブで働いた時の収入はほんのわずかであったが、タレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演するようになり、その存在は次第に知られるようになった。
1966年に「ジャクソン・ファイブ」を結成し、ゲーリーのナイトクラブでデビューした。その後ニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝し、マイケルのリードボーカルとして天才ぶりは、全国的に知れわたった。
「ジャクソン・ファイブ」、そしてその後の「ジャクソンズ」時代もマイケルはグループの音楽活動と並行して、ソロ活動を行っていた。
マイケルの音楽活動に「空白の期間」があるように思うが、マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、この時内気な青年に変わってしまったという。
しかし、1980年代のはじめ、ミュ-ジック・ビデオに登場した「新装マイケル・ジャクソン」の姿には、誰もが驚きと感動を憶えた。
ただ1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられた。
マイケル(Michael)という名は、ユダヤ教聖典とキリスト教新約・旧約聖書に天使のかしらであるミカエルそして、イスラム教聖典のクルアーン(コ-ラン)にもミ-カールという天使として登場する。
さらに、ジャクソンも、Jack(ヤコブ)とson(息子)とからなっており、歌詞内容からしてイスラエル十二部族(ユダヤ教徒)を冒涜していると非難され、キリスト教団体からも反キリスト的であるなどとクレームがついた。
大体歌というものは、作者には何の意図が無くてもどうにでも解釈されうるものがあり、ほとんどが曲解されたもにすぎなかったが、マイケルはこの件について「不快な思いをさせた」と謝罪している。
「Billie Jean」は黒人であるにもかかわらず、MTV(アメリカの若者向けケーブルテレビチャンネル)でプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品として知られている。
もっともマイケルの一連のビデオは黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊すというコンセプトのもとで作られたものであり、壁を打ち破るかのような力強いロックナンバー「Beat It」がリリ-スされる。
このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行った事で知られた。
しかし一番の衝撃的な画像を提供したのがミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」であった。マイケルが狼男になったり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的なプロデュースは、単なるプロモーションビデオの域を超えたものになっていたと思う。
1990年代に入ると、後に裁判では無罪を勝ち取ったものの、性的虐待疑惑で訴えられたり、ホテル4階のバルコニーから自分の子を窓から見せるなどの行為が非難され、マイケルの活動に様々な翳りが見えていた。
1994年5月、かのエルビス・プレスリーの娘リサ・マリー・プレスリーと電撃結婚したが、今思えば運命的にどこか似通ったものの繋がりを感じるが、2年後に離婚している。
なおマイケル・ジャクソンが自ら築いたの自宅兼遊園地「ネバーランド」は、東京ドーム242個分の敷地面積に相当し、ピーター・パン物語に登場する、親とはぐれ年を取らなくなった子どもたちが妖精とともに暮らす架空の国で話である。
皮肉なことにここに招待した子供にマイケルは性的虐待で訴えられ、その心の傷は後々まで尾を引いているように思われる。以後マイケルはネバ-ランドに住まず、現在はほとんど荒野化しているという。
ところで、2009年6月マイケル・ジャクソンの死を聞いて数年前に見たアメリカ映画を思い出した。
アメリカのある大学に「雪のように白く」生まれついた黒人教授がいた。
より可能性に満ちた人生を手に入れるため自分の人種を偽り白人となった。
大学で黒人に対する差別的発言のせいで大学を追われることになったが、
自分が一言「自分は白人ではなく黒人」であることを証言すれば、
差別発言に対する疑惑は消えたはずなのに、ついに教授を真実を語りださず自ら辞職の道を選び荒野をさまようことになる。(そこでニコ-ルキッドマン扮する傷ついた女性と出会う)
この話はピュリッツアー賞作家の原作「白いカラス」を映画化したものでした。
楽しげに遊ぶ白鳥の群れに混じり「白いカラス」が水面下に水を掻く努力は想像を絶する苦行であったであろう。
マイケル・ジャクソンを歌で追悼するとすると、何か一番良い歌かと思いをめぐらせた。
ビリー・ジョエルの「Just the way you are」(素顔のままで)を思いついたが、これは恋愛ソングというべきものでちょいと違う。
マイケルが最も輝かしい時代にデビューしたペット・ショップ・ボーイズの「フレイブヤント」の歌詞は、マイケル・ジャクソンの雄姿を彷彿させるものがある。
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