怪物「かのように」

森鴎外の小品「かのように」に次のような言葉がある。

「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている。」

鴎外のいう「かのように」とは、物事をとらえる時「○○であるかのように」捉えなければ認識が成立しないもののことである。私も鴎外に触発されていくつかの事例を考えた。
例えば数学における「虚数」や「多次元ベクトル空間」のように「そういうものが実際に存在するかのように」数学の形式論理を適用することによって充分有効な結論を導き出しうるのである。
では実社会で「かのように」が適用されているものはないだろうか。すぐに浮かぶのは「法人」という考え方である。
「法人」とは、生物学的にヒトである自然人ではないが、法律の規定により「人」として権利能力を付与されたもので、会社などの団体をあたかも一人の人間である「かのように」、権利・義務の主体としたものである
こう考えることによって会社を一人の人間のごとくに相手取って損害賠償などを要求することができ、逆に会社は一人の人間であるかのように権利主体として行動したり責任が生じたりするのである。
ところで人間個人の責任を考える場合には人間の自由が前提となる。しかし、いかなる行為も過去にその原因を持ち環境の諸作用の結果として生まれたものと捉えるならば、自由な意思などは働いてはいないということである。
つまり善行や犯罪でさえも自然現象とおなじく自然に生起する現象に過ぎないと考えることもできる。
しかし我々は人間の行為をそうした諸要因から切り離して本人の自由の意思が働いた「かのように」に見なしてその人物の責任を問題とする
我々が物事を「かのように」捉えるのは、今実在しない過去の人物や未来の人物を思う時一層そういう傾向が強くなるような気がする。つまり我々は、歴史上の人間がまるで自律した行為、自由な行為として行ったかのように考え評価するのである。
人の自由を前提にしてはじめて物事の正邪を明確にしたり、偉大さや卑小さを浮き立たせることができるからである。
つまり人にはい選択枝がいくつもあってその中から一つの行為を選びとったのだと思ってしまうのだ。
例えば今の人々が日本が戦争に至る過程を考える場合、戦争をさける余地がいくらでもあったかのように捉える傾向があるが、実際にその時代に身を置いてみた者にとってそれ以外には選びようのなかったか、あったとしても極度に少ない選択の範囲の中から選びとった行動であったのかもしれないのだ。
そして国家に殉じたと信じて疑わない人物が、現代の視点からみて戦争犯罪者として指弾されるというようなことがおこるのである。
人間は、存在しない過去の人間と未来の人間と対話するなかで、人間は過去の人間をあまりにも簡単に裁くし、逆にあまりにも安易に未来の人間に期待を寄せる
人間は自由であるかのように見えて、実は逃れられない轍を踏みながら歩んでいくものではなかろうか。

ところで過去の人間と対話する具体的な方法は古典を読むことだろう。古典に接することで、時代の認識から解き放たれるという形での光を得ることができる場合もある。
例えば我々は万葉集を読むと、現代人が失ったような感情ののびやかさや素直さに心をうたれ、そうすることによって我々の心の内側を新たな光で照らすことができる。
もちろん近代というフィルタ-を通じて万葉人の心を心をのぞいているのであるから、自ずとその認識に制約はあるものの、「万葉集」の歌は今に移し変えて命をもちうるがゆえに古典なのである
アメリカの宣教師の娘として中国での生活をしてきた女性パ-ルバックが「大地」を書いた。はっきりいってこの小説の難点は、面白すぎることである。それは欧米人の人間観の中から見た中国農民の姿であり、これが本当の中国農民の実像であるのかという疑問が残る。
パ-ルバックには「聖書物語」という名著が他にあるが、アブラハムやヤコブの人物造形と「大地」の王龍一家の人物造形にほとんど違いがないということである。
つまりパ-ルバックはかならずしも真実の中国農民像を描いてはおらず「真実であるかのように」描いているから面白いのである。
ところで「大地」を日本語訳した円地文子は、「大地」に描かれた王流一族と彼らをめぐる女性達の姿を、明治の政府高官として栄達を極めた男の一族をめぐる男女関係に見事に移し変えて、小説「女坂」を書いた。
「女坂」とて現代的解釈をほどこした男性像だったり女性像だったりして、本当の明治男・明治女の実像ではないのかもしれない。
芸術の才とは、結局「真実であるかのように」描ききる能力のことではないだろうか

確かに鴎外が指摘したように人間の社会は「かのように」で成り立っているようにみえる。 人間の振る舞いを「かのように」の観点からみると、モノマネが可笑しいのはソノモノではなく「かのように」真似るので可笑しい。動物を可愛く思えるのは、動物が人間である「かのように」振舞うからである。
特定の職業についたものは「そうであるかのように」振舞わなければ社会的信用をえることはできない。オバマ大統領がホワイトハウスの「スタっふ~」と叫ぶ狩野英孝のようなノリでは、どんなに聴衆をひきつけても、国民の信頼はないだろう。
ところで最近の世界情勢の中で気になること。それは「人権」の考え方の異常突出である
つまり国家主権よりも人権が優位にたつということで、具体的には専制国家が人権を弾圧しているのならば、その国家政府は力をもって覆してもかまわない(「人道的介入」)というような認識の仕方である。
アルバニア系を弾圧しているコソボを空爆しても、クルド人を弾圧しているイラクを爆撃してもかまわない、という認識の仕方である。
そもそも基本的人権は、「自然権思想」から生まれたものであるが、自然権とは人間が自由や生命や財産を生まれながらに持っている「かのように」想定された権利をさしている
もちろん「かのように」はそれを受け入れてイイという暗黙の合意によって成り立つが、その「かのように」をもって軍事的手段による国家転覆まで走るとは、「かのように」はおそるべき怪物であるかのようである