皇室の危機とは

源氏物語の冒頭に「いづれの御時にか、女御・更衣あたま候ひ給ひける中に、いとやむごとなききはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」とある。
実はこうした朝廷における後宮(または側室制度)というのは明治の時代まで存在した。
もちろん「お世継ぎ」を確実に残すためである。
明治天皇には后の他5人の側室があり、15人の子を作り内5人が皇子であったが成人したのは嘉仁親王(大正天皇)のみであった。母は側室の柳原愛子で、福岡の炭鉱王に嫁いだ柳原百蓮の叔母にあたる。
大正天皇は病弱といわれ后以外に側室はなかったが、昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮の四子をもうけけているのは意外いといえば意外である。ちなみに明治天皇も大正天皇も正室の子ではない。
昭和天皇の妃選びでは久邇宮良子様が候補に挙がったが、山県有朋より「待った」がかかった。良子様の生母である島津家に色盲の系統があるというクレームである。
もちろんのこの背景には長州のドン山県と島津(薩摩)の権力闘争の一面があったとみてよい。
この「宮中某重大事件」の最中に、皇太子裕仁のヨーロッパ外遊問題が浮上する。様々な論議をまきおこしながら、裕仁殿下は1921年3月から9月まで西欧諸国を歴訪した。
裕仁殿下はそれまで味わったことのない人としての自由を味わい、後にあの時の経験あってこそ今日の自分があるとまで語られたという。
また外遊中に大正天皇の病状は悪化し、11月25日、裕仁親王は摂政に就任し大正天皇の代わりに公務につかれることになり、さっそく外遊体験の実効を験されることになる。
実は昭和天皇こそが朝廷における側室制度を廃止した人物であった
しかし皮肉にも天皇に生まれた第一子から第四子まですべてが女の子で皇位継承者たる男子の誕生がなかったために、この改革の正当性が問われかねない状況が起きたのである。
しかし1933年にようやく今上陛下が生まれたため幸いにも皇位継承問題は氷解することになった。

テレビの普及とともに皇太子(現平成天皇)と美智子妃の「テニスコートの恋」にはじまる「世紀の御成婚」そして皇太子一家の幸せな姿を見ることができるようになった。
天皇家とは日本の文化や伝統の象徴ばかりではなく、今日の国民の「理想家族」のシンボルとまで思ったものである
しかし皇太子・浩宮と雅子妃の「御成婚」が華々しく伝えられたにもかかわらず、またもや皮肉なことに男子誕生ならず、それ以来の新聞・雑誌など皇室報道には「ご憂慮」や「ご心痛」や「バッシング」や「人格否定」などの言葉が踊るようになっていった。
そればかりか「女性天皇」準備のために必要な皇室典範の改正にまで話が及んだが、弟君の秋篠宮夫妻に男子誕生がなり、当面は「女性天皇」の可能性や皇室典範改正問題は立ち消えになった。
それにしても今日、「御成婚」当時のあの祝賀ムードとは隔世の感がある。あの頃、男女雇用均等法成立の二年後に外務省に入省した元キャリアウーマン小和田雅子の存在が、皇室の閉鎖性を一新するかのような期待さえもたれた。
しかし今日の我々が学んだ最大の教訓は、皇室というのは実はそんなヤワなところではなく、一般ファミリーの理想を求めるなどトンデモナイ、きわめて摩訶不思議な世界であるということだ
今日の皇室問題の元凶は、実は国民がタレントに理想を求める如くに皇室にそれを求めたことにあったのかもしれない。振り返るに、昭和天皇の皇太子時代の「ヨーロッパ外遊」あたりにその「錯誤」の基点があったようにも思うのだ。

昭和初期といえば、満州事変など軍事一色と思いがちだが、政府要人の暗殺やテロが頻発し人々は先の見えない状況の中で大本教など新興宗教が多く出現した。
そしてそうした新興宗教が当時の皇居内にも影響を及ぼした事件がおきている。
荒俣宏の「帝都物語」などもそうした時代の雰囲気は捉えものだが、松本清張の最後の作品「神々の乱心」は、神道系の新興宗教が宮中に入り込みその教祖が三種の神器を奪い自らが天皇に成り代わろうという野望の物語である
そしてこの小説が昭和初期に宮中でおきた実際の出来事を踏まえて書かれているから恐ろしい話である。
松本清張の手法は、現実の世界の出来事に材料をとり想像力を働かせながらそれらの出来事を組み合わせて作品をつくるのだが、「神々の乱心」はオウム真理教事件をも組み込みつつフィクションを組みたててあるように思う。
ところで現実の事件とは次のようなものであった。宮中の元女官長・島津ハルが、神道系の神政龍神会に入信し、この神政龍神会は、やがて伊勢神宮の鏡は偽物であり、熱田神宮の剣も皇位継承のものでないと主張する。その元女官長は、昭和天皇は早晩崩御するなどと預言するにいたり不敬罪で逮捕された。
この島津ハルは、かつての薩摩藩国父・島津久光の孫であり、当時の昭和天皇の后・香淳皇后(久邇宮良子)とも親戚関係だったという大変な家柄であったため、これは大事件であった。
皇室に蠢く魑魅魍魎は、昭和天皇の皇太子時代の「外遊」にも暗い影をなげかけている。
皇太子の外遊つまり欧州歴訪に反対した最大勢力が、実は皇太子母の貞明皇后であった。
大正天皇の后である貞明皇后は島津ハルの影響をうけ、大正天皇が精神を病みがちなのは祭祀に熱心でなかったことが原因だという意識をもち、「神ながらの道」という思想のを極めれば、自ら皇祖神アマテラスのようになれると思っていたという。
そして、この貞明皇后から厚い信頼を得ていたのが後に女子学習院を創立する下田歌子という歌人であった。
皇后はお気に入りの下田歌子を新興宗教の飯野吉三郎のところに派遣し、そのオツゲを聞かせた。
飯野は明治の中ごろ鉱山ブームが起きた頃に山師たちの間で、飯野の予言はよくあたるという評判をえて政財界の中枢に喰い込み、下田歌子と同郷であったことからも皇室にも入り込むようになっ「隠田の行者」とよばれた怪人である
貞明皇后は、アマテラスよりもこの「隠田の行者」を頼り、皇太子外遊には飯野のオツゲによって反対したのである。
一方、皇太子の外遊を強く説いたのが原首相で、皇后の反対にも屈伏せず新時代の皇太子は世界を見て知識を広くし、各国元首を訪問してヨーロッパ宮廷と親善を深めなければならないと考えていた。
他方、日本の皇室は外国に学ぶ必要などないという強硬な反対も多く、原首相が東京駅で右翼の青年によって刺殺されたのもこの問題が尾を引いていたからである。
であっても1921年についに皇太子は半年におよぶ外遊をし、キリスト教的な世界観にもふれたのか、帰国後は宮中の制度改革に着手し、後宮の女官制度をも一新しようとした。
皇太子は住み込みになっていた高級女官を通勤制にしようとしたが、それに対して宮内大臣牧野伸顕は、宮中祭祀における女官の役割は重要であり通勤制ではできないことを皇太子に説いた。
そんな折、皇太子は新嘗祭を休んで四国へ旅行に出かけてしまい、これを知った貞明皇后は、いよいよ皇太子が宮中祭祀を蔑ろにしていると危惧を抱くようにになったという。
時代は変わり皇太子は昭和天皇となりその母・貞明皇后は皇太后になるが、この皇太后の下で昭和天皇は、祭祀を熱心にやらざるをえなかったといわれている。

ところで昭和天皇の皇太子時代の外遊問題の連想でいうならば、平成天皇の皇太子時代の教育問題を思わざるをえない。戦後、GHQと連絡をとりながら天皇制温存に動いていた元宮内次官が、皇太子の教育には国際的に立派に通用する人物に育てなければならないと、昭和天皇に進言したという。
このことが皇太子の家庭教師として米国人女性教師・エリザベス・ヴァイニングの招聘につながるが、彼女は1946年来日、50年秋まで滞在し青年皇太子に大きな影響を与えた。
現在の皇太子妃(雅子妃)にも最近外遊問題というのがあったが、イギリスの新聞は、皇太子が雅子妃について「外国訪問がなかなか許されず、キャリアや人格を否定する動きがあった」などと語ったことを取り上げ「宮内庁は世継ぎの男児出産までは外遊に反対だとみられている」と報じた。
国民や皇室が期待したのは結婚当時さかんに喧伝された「皇室外交」などではなく、本人の努力ではどうすることもできない面が大きい男子を残すことであり、側室制度がない中で大きな重圧の中におられたと思う。
宮中の女性は新嘗祭には謹慎しなければならず、生理中は宮中三殿にも上がれないような女性を不浄なものと見なす価値観さえも残っているそうだ。
そうであるならば、宮中または皇室は日本人の今日的理想を映す場所ではないように思える
ちなみに法的にみて天皇は日本国民とは扱わないのだそうだ。その日本国民でない人が「日本国民の象徴」なのだから摩訶不思議という他はない。
そもそも皇室は憲法理念ともハズレた世界なのであり、一般世界の価値観に沿うように期待すること自体が間違いで、その意味で「開かれた皇室」が望ましい姿だとは思えない。
基本的には、日本人の深層としての文化や伝統を守りぬいてこそ皇室なのだ
要するに皇室はあまりにも矛盾をはらんだ世界であり、皇太子妃の御病気も個人の不適応問題などではなく、日本人にとってかなり根源的な問題をつきつけているように思う。