かかずらうこと

立花隆氏は文芸春秋に掲載した「田中角栄の人脈と金脈」でその名が世に知られたが、 後に語ったところによれば、自分のエネルギーをそこまでこの問題に「かかずらう」事はけして本意ではなかったと語っている
立花氏は東大仏文科出身だが哲学科に入り直したところからみても、その気持ちはわかる気がする。
立花氏にとってみれば田中金脈問題は「行きがかり」でありその後ロッキード裁判傍聴に長期間つき合わざるをえなかったのは「成り行き」であったにすぎないのだろう。
立花氏のその後の著書などからみて、氏にとっての真のテーマは宇宙とか生命など神秘な問題だったようだ。立花氏に限らず、人間は実際にぴたりとあった仕事をして生きていけるわけではない。
望んでもいないことに深く関わざるをえないこともあるし、自分にあった仕事を探そうなど悠長なことをいう前に、しなければならないことが目の前に据え置かれるのだ。
それが誰かにとってどうしても必要なことであり、当面自分にしかそれが出来ないのならば、そこから逃れるわけにいかないのだ。カントのいう「当為の命令」とはそういうことなのだと思う。
カントによれば、人間が好き嫌い、快不快で物事を決断するのは真の自由ではない。むしろそれらを超えて「為さねばならぬ」からするというのが真の自由である。つまり、人間の本当の自由は「当為の命令」に応えるところにしかない。
では、「なぜなさねばならぬか」、根拠不十分な「当為の命令」にあえて神をもちだすならば、「コーリング」(呼びかけ)ということになろうか
「コーリング」に応えた人物としてアメリカ黒人公民権運動のマルチン・ルーサー・キングと、「沈黙の春」を書いたレイチェル・カーソンの二人を思い浮かべる。
二人はいずれも、関わらなければ関わらなくて済んだかもしれない問題と深く関わり、その問題に文字通り「命を捧げた」という点で共通している

アメリカの黒人による公民権運動は、バス乗車をめぐっておきている。1955年、アラバマ州モントゴメリー。12月1日、黒人の店員ロ-ザ・パ-クスがいつものように市バスで帰宅の途についた。
市の条例によれば、白人専用の前部座席が埋まると、後部座席の黒人は席を白人に譲らなければならなかった。その日、勤め帰りにクリスマスの買い物をして、足が疲れていたパ-クスは、あとから白人がバスに乗り込んでも席を立たなかった。白人運転手は警察を呼び、パ-クスは逮捕された。
パ-クス逮捕の知らせを受けて、市の黒人指導者は市バスの一日ボイコットを計画した。そして、前年に市内のバプテスト教会の牧師としてボストンから着任したばかりのマルチン・ル-サ-・キングにリーダーとして協力要請をした。
アトランタの豊かな牧師の家に生まれたキングは、ボストン大学を出て一年ちょっと前にこの市の教会に着任したばかりだった。有力な黒人有力者達は「名前が知られてしまう」と表にでることをためらう。
そして弱冠26歳のキングに白羽の矢があたったのは、ボイコット運動の先頭に立つ指導者には市の黒人内部の情報に通じていない人物が必要だった。
キングが運動失敗の暁には、全責任を負ってどこかに逃走できる身軽なよそ者だったからだ。つまり失敗しても累がおよばないということだ。
そういえばニクソン大統時代にウォータ-ゲ-ト事件を解明したワシントン・ポスト紙のウッドワ-ド記者とバ-ンシュタイン記者は、取材対象に近いホワイトハウス付の政治記者ではなく、市内廻りという「部外者」であったのが幸いして情報をリ-クされた。おかげで情報源「ディープ・スロート」も身を白陽にさらさずに済んだ。
しかしこの無名のキングは、誰もが想像した以上の存在感をもっていた。
連邦最高裁が人種隔離条例を違憲と判断し、一年続いた運動は黒人の勝利に終わる。
キングはそれまで現実の苦難から逃れる場所にすぎなかった教会を戦う拠点に変えた。キングは四千人を集めた決起集会で原稿なしの演説を行い、屈辱と忍従にかかわって自由と正義を求める時が来たと訴えた。
ここから公民権運動が力を得る。
突然表舞台に立たされた男が黒人の公民権運動の指導者となる。つまるところキングは「コーリング」に勇敢に応えたのだ
キングはガンジー哲学を学び人種差別の激しかったバーミンガムを戦場と選んだ。しかし白人保守層の過激な反対運動もおきた。バーミンガムの教会が爆破され、聖歌隊の四人の少女が犠牲になり、マルコムXも暗殺された。
マルチン・ル-サ-・キングも次第に身の危険を感じ始める。キングの弱点といわれた女性達との多くの関係も加重なストレスと「死の意識」と無関係ではなかったかもしれない
しかし死の危険にさらされながらもキングはこの運動と関わり突き進んでいく他はなかった。
「死は怖いし長生きしたい。でも人々を救う犠牲なるのら、死んでも意味はある」
1968年宿泊先のメンフィスのモーテルで一発の銃声が鳴り響いた。39歳の死であった。

レイチェル・カーソンが1962年に発表した「沈黙の春」は、農薬の無制限な使用について世界で始めて警告を発した書として世界をも揺り動かした。
しかし彼女が「沈黙の春」を書くにあたって戦わなければならなかったその戦いの大きさは言語を絶するものがあった。そのことに私は深い感銘を覚える。
彼女自身の病と身内の不幸にとどまらず、そして州政府、中央政府、製薬会社などを敵にまわしての執筆だった。「沈黙の春」に対する反撃は、彼女自身の人格に対する誹謗・中傷にまで及んだ。
彼女の写真から見る限り列女とはほど遠く、柔和さや穏やかさこそが生来のもので、繊細で傷つき易ささえ覗かせている。
レイチェル・カーソンはペンシルヴァニア女子大学に進み、そこで作家になるため英文学を専攻するが、むしろ生物学の授業に魅せられた彼女は、悩み抜いた末途中で方向を転換、生物学者になる道を歩み始める。
彼女は海洋生物学者としていくつかの本を出し、そのひとつが全米図書賞の候補にもなり彼女の名は知れ渡っていた。
彼女の人生の大きな転機は1958年1月に彼女が受けた一通の手紙であった。その手紙には身近なところで毎年巣をつくっていた鳥が薬剤のシャワ-によりむごい死に方をしていたことが綴られていた。
彼女のもとにはすでに、同じような何通かの手紙がきていたのだが、この時それをもはや無視できないところに来ていることを感じた。
1939年に発見されたDDTが害虫を駆逐し大きな収穫の向上が見られたためその経済的な利益ばかりが注目された。州当局が積極的に散布していたDDTの蓄積が環境悪化を招くことはまだ表面化していなかったのである。
彼女はいくつかの雑誌にDDTの危険を訴える原稿を送ったが彼女の警告はほとんど取り上げられることはなかった。
彼女は心を痛め雑誌の編集者にこうした問題の本を書き上げる人物はいないかと打診したが適当な人物は見当たらず、結局彼女自らペンをとる決心をする
彼女の専門は生物学でありこうした問題を取り扱うだけの化学的知識は充分とはいえなかった。さらに彼女が本を書くことによって連邦政府・州政府・製薬会社を敵にまわすことは目に見えていたのである。
彼女自身がかつてアメリカ内務省魚類野性生物局の公務員として働き安定した収入を得ていたその政府を相手に戦うことになるのだ。
彼女は専門家に数百通の手紙を出し、論文やデータを集めた。わずかな間違いも訴訟問題を引き起こし、出版できなくなる心配があった。こうした専門家達が敵となる政府や会社に対していつか味方になってくれるという彼女なりの戦略もあった。
しかしその過程では覆いかぶさるように苦難が待ち構えていた。まず彼女に生命に対する目を開かせてくれた最愛の母親を失うという不幸、両親を失った親戚の子供を養子にむかえて育てる負担、そして自身を「病気のカタログ」と呼ぶほどに体中を蝕む病の進行、州政府からの攻撃、そして製薬会社からの反キャンペ-ン、のみならず彼女の人格や信用に傷つける非難や中傷の数々と戦わなければならなかったのである。
「ヒステリィー女」「なぜか遺伝を心配する独身女」「共産主義の回し者」などなど。
しかしケネディ大統領が記者会見でこの問題にふれレイチェルが農業の問題を明らかにしたと肯定的な発言をして 流れが変わった。
1962年、それでも「沈黙の春」は完成する。彼女を支える力はどこから来たのか。まず生物学者としての命に対する高い感性、そして逆説的だが彼女自身の「死の予感」が彼女に勇気を貸したような気もする
彼女は友人につぎのような手紙を書いている。
「事態を知っているのに沈黙をつづけることは、私にとって将来もずっと心の平穏はないということだと思います。」彼女も「コーリング」に応えたのだ
1964年春、「沈黙できなかった」彼女はメリ-ランド州シルバ-スプリングで56歳の生涯を終えた。

クレネ人シモン。この人の名前は聖書に登場する名前だが、イエスと数奇な関わりかたをする。
イエスがゴルゴタの丘を十字架を背負わされて登る際に、見守る群衆の中から兵卒の命令で一人の男がよび出されイエスとともに十字架を背負わせる羽目になる人物である
そういえば映画「ベンハー」でベンハーがシモンと同じ役割をするので、その姿を思い浮かべる人も多いと思う。
聖書には、「シモンというクレネ人、田舎より来たりて通りかかりしに、強いて十字架を負わせ、イエスをゴルゴタという処に連れてゆけり」(マルコ15章)とある。
この不意にイエスと「かかずらう」ことになった人物の生涯はどうなのか、気になっていたところ、聖書の別の箇所ローマ16:13ににほんの一行だけシモンの息子ルポスのことが記載されているのをみつけた。
シモンとその家族が皆信仰者になっていた事実が興味深い。