手の偽装

人の心は顔だけではなく色々なところに現れ出でる。つまり思った以上に心とは隠せないもののようだ。
悲しみを隠す人がハンカチを握り締めていたり、平静を装おうとした人が手もとのカップを滑らせたりもする。
グラマン疑惑で国会証言を求められた商社マンが、宣誓のサインをする時手の震えをどうすることもできなかったテレビのワンシ-ンは今でも記憶に残っている。
心の動きを手の動きで表現した映画シ-ンをいくつか思い出す。
「奇跡の人」でヘレン・ケラ-とサリバン女史の手の触れ合い、「手錠のままの脱獄」の白人と黒人の最後まで離れることのなかった手、「ET」の人間と異星人との指の接触シ-ン、ついでにアダムズファミリ-の不気味に動く手などを思いうかべる。
少々意外なところではアラン・ドロン主演の「太陽がいっぱい」も「手」が印象的だった
主人公である貧しい鬱屈した青年が裕福で何もかもが容易に手に入る友人を殺し、その男になりすますという完全犯罪を目論んだ話である。
裕福な青年は貧しい相手の劣等意識につけこむかのようにヨットに誘い、自分の恋人さえも見せつける。その結果殺人をまねきよせる結果となるのだが、燦燦と輝く太陽の下、互いの「青春の残酷」がギラつき、切ない映画音楽がそれを引き立たせる。水面下に潜む確執や葛藤をドラマチックに沸騰させている。
相手の男のサインをスライドに表示して、手でなぞるように模倣するそのシ-ンは忘れがたい。
ラストシ-ンで、完全犯罪を自ら祝うかのようにワインを傾けるアランドロンの白い手と、ヨットに絡み付いて打ち上げられた死体の黒々しい手のコントラストが印象的に、そして象徴的に描かれていた。
あふれる陽光は、貧しい青年が掴みとろうした未来を暗示しているようだし、いずれ白陽の下に露になる人間の罪をも表しているようでもある。

「太陽がいっぱい」と並んで青春映画の古典と位置づけられながら、今なお新鮮さを失わないのは「エデンの東」だろう。
スタインベック原作の「エデンの東」は、旧約聖書の「カインとアベル」兄弟の物語の現代版であることはほぼ定説である。「エデンの東」の登場人物は「キャルとアロン」だから、名前までも符合している。
聖書の方は、捧げモノが神に顧みられなかったカインが、捧げモノが受け入れられたアベルに嫉妬し殺害するという兄弟の話である。
アダムとイブの子供がカインとアベルなので人類創生後にさっそく殺人事件がおき、人類は「カインの末裔」ということになる。
映画「エデンの東」では、愛らしく純真なアロンとひねくれ者のキャルが登場する。町育ちの美しい少女アブラと仲睦まじくなっていくアロンを横目に、ジェームズ・ディーン演じる孤独なキャルは自分でも分からない何かを探し求め、深夜の街を徘徊しはじめる。
兄は優等生で何をしても父親のお気に入り。なのに弟キャルは父親に気に入られようと色々するが、すべては裏目にでて逆に父親に怒られるばかりである。
キャルは、失踪した母を追ってに港町で娼婦の仕事をしている事実を知る。そして父が自分に向けている目線こそが母親をおいつめ母は家を出たのかもしれない、などと思う。
キャルは自分の抱える混沌をぶちまけるかの様に母親の真実を兄に伝え、純真一徹な兄は発狂する。そして、父親もそれがもとで亡くなる。
みんなそれほど悪いヤツなんていなのに「エデンの園」から追放された人間の姿なのか。
映画「エデンの東」は、スタインベック原作の同名の小説の断片を切り取ってまとめたものである。
ちなみにスタインベックの「怒りの葡萄」は、旧約聖書のモ-セの「出エジプト」物語に着想をえているから、聖書がアメリカ文学に与えた影響力は相当なものです。

果たしてルネ・クレマン監督が意識したかどうかは知らないが、「太陽がいっぱい」にも聖書を少々感じさせるものがある。
それは「エサウとヤコブ」の話で、この話では「人間の入れ替え」があり、しかも「手の偽装」が行われる
長男のエサウは猟に優れ勇猛で活動的で父親好み、一方の次男のヤコブはテントから出ず何を考えているのか屈折感のある人物、ここまでは「エデンの東」にも重なるが、母親は父好みのエサウよりも繊細なヤコブの方が気に入った点で、兄弟間のバランスがとれている。
猟を楽しみ野から帰った腹ペコエサウに、ヤコブはワナをかけて待つ。ワナといっても「長子の特権」を譲ったらおいしい物をいくらでも食わせてあげるといったものだが、このワナの意味はとてつもなく深い。
新約聖書では「長子の特権」はそのまま「地を継ぐ者として」としての「救われる者」の特権なのだ
世事に通じ世故に長けた人間エサウは、逆に一番大切なものが見分けられない。「救い」の特権を目の前の利益に眩んであっさりとヤコブに渡すのだ。
ヤコブとエサウでおきた「長子の特権」の委譲は兄弟間の「密約」でであって、父親イサクは知らない。
そこで母親リベカは好みのヤコブに智恵を授けるのだが、それが「手の偽装」だった。
父イサクはすでに視力が弱って床に伏していた。死に瀕して自分の特権を譲るべく長子に祝福を祈るのだが、ヤコブはこともあろう毛深い兄エサウに似せてヤギの毛を手につけてエサウに成りすまし、父イサクの今際の床で「神の祝福」を祈りうけるのだ。
つまり手の偽装により人間が入れ替わるのだが、サインの偽装で人間が入れ替わるのが「太陽がいっぱい」です。
エサウの人の良さとヤコブの狡さが目立つが、能力にすぐれていたにも関わらす目の前の利益にほだされて大事なものを失うエサウと、騙してでも神の祝福を得ようとするヤコブ。
エサウが求めるものは常にこの世のもの。神からからのものを軽んじた。
あまり道徳的とはいえないリベカとヤコブ母子の行動だが、その後を見ると神の恩寵はあくまでもヤコブの側に傾いていったといわざるをえないのだ。
ヤコブはその後十二部族の族長となるが、エサウの子孫は聖書の中でエドム人としてあらわれ, ダビデ王の代にエドム人はその属国となりしばらくして滅亡している。
「兄は弟に仕える」(創世記25章23節)という預言どおりになったのである。
また、ヤコブは、経済的な祝福を得てある意味では資本主義の淵源ともいうべき「ヤコブの産業」を確立していく
世の中で社会的に上ろうとすれば当座の上司に気にいられるように努力するのが一般的、実際にエサウは父イサクに気に入られていた。しかし父に愛され自分の狩人の能力を誇ったエサウは神に求めることがなかった。
しかしヤコブは父に愛されなかった分その恩寵を人間にではなく神にダイレクトに訴えるように求め、そのアスピレ-ション(渇望)こそが彼の特質であったといってよい。
神はヤコブの「手の偽装」が道徳的か否かを問うよりも、むしろそのアスピレ-ションに目をとめたのではないか。新約聖書には「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ロ-マ9:13)とある。
ヤコブはある時、旅の途中に「神の御使い」と出会い、「自分を祝福しろ」とすがりついた。あんまり激しくすがりついたので御使いはヤコブの骨を一本はずしたほどだという。それでもヤコブは、はなれずに縋った。

その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26)

それで神はヤコブに「神と争う」という意味の名を与えた。その名こそが「イスラ エル」である
イスラエル国家の過去・現在を見るかぎり、その国名の意味するところはあまりにも深い。