少女の贈り物

自分が生きてきたことを「負」としか捉えられない人がいたとして、認識の力つまり「ものは考えよう」力で、その「負」のすべてを「正」へ転換できるならこれほどいいことはない。
しかしながら世間で成功者といわれる人でさえも、すべてが過ぎ去って成功の代償なをど考えると人間の認識力がそれほどのものではないことを、痛感したりするものだ。
しかし「自分は一体何をやってきたのだろう」と疑えるところが、人間らしいことなのかもしれない。
ただこの世には恩寵のような「出会い」によって、突然人生を「系統だったもの」に感じられたり、転換することができる人もいる
その出会いが己の価値感を根底から揺さぶるとか、あるいは自分の来し方行く末に何がしかの意味を付与することもあろう。
秋元順子さんの最近のヒット曲「愛のままで」はおそらく小説「マジソン郡の橋」を意識して作詞されたと推測するが、「すべての偶然があなたへと続く」とか、「人生の意味なんていらない」とかいう歌詞がある。
ここでは男女の話でなく一般論として、「すべての偶然がXへと続く」とかいうような行く末に収斂する方向性を見い出したならば、逆に人生に意味なんて深く問う必要もないのかもしれない。
幸か不幸かは置いておくとして、ある出会いのおかげで攪拌された人生に「文脈」を見出すことができたのならば、そういう出会いこそが「邂逅」といって良いでしょう
以下の話は、或る年配男が或る少女との出会によって「収斂する人生」を見出したという出会いの話であり、その「邂逅」の舞台はタヒチと北海道です。

「赤い月」など自らの満州引き揚げ体験を描いたドラマで知られる作詞家・なかにし礼氏はゴーギャンの遺作となった大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」に、自分の「異邦人」体験を重ね合わせ、ことのほか強い思い入れがある。
ゴ-ギャンは1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであり、ゴ-ギャンが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。
しかし父はゴ-ギャンが1歳になる前に急死し、残された妻子はペルーで数年を過ごした後、1855年フランスに帰国した。
こうした生い立ちの中で、特に黒人女性に添い寝してもらって育った体験などは、彼が後年タヒチの女性達を描くようになることと関係があるかもしれない。
フランスに帰国後、ゴ-ギャンはスペイン語しか話せない自分が異邦人のように感じたという。
神学校、航海士、海軍に在籍し普仏戦争に参加後、パリで株式の仲買人をすることになる。
デンマーク出身の女性メネットと結婚したが、メネットはこの時、生活力のあるゴーギャンが芸術という「呪い」に染まっていくなど予想だにしていなかったに違いない
この頃のゴーギャンはごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、絵を印象派展には出品するだけの一介の日曜画家にすぎなかった。
株式相場が大暴落して勤めを辞め、突然画業に専心しだすが、株式仲買人を相談もなくやめたことに妻は激怒しデンマークに帰ってしまう。その後、ブルターニュの町にある安宿で画に没頭する。
40歳の時に「説教のあとの幻影ーヤコブと天使の戦いー赤い大地」を描くが、タヒチの美術館ではなんとそれが日本の「相撲絵」と並べてあり、その構図がまったく同じことに驚かされる。
ゴッホと並んでゴーギャンがいかに日本の浮世絵の影響を受けたかがわかる
遺作となった「我々はどこからきたのか、~」では人の一生をタヒチの風景を背景に右から左へと描いている。そういう時間の流れの描き方こそ、日本の絵巻物の手法である。
ゴッホは浮世絵にあるような光を求めてアルルにいくが、ゴーギャンを呼びよせて共同生活をしたことがある。しかしゴーギャンにとってペルーの光に比べてアルルの町はなんということはない町だった。
そして個性的な二人は2か月後にはげしくぶつかる。
ゴ-ギャンは「ひまわりを描くゴッホ」を描くが、ゴッホはそれを「狂気の自分だ」と激怒し耳を切り落とした。
しかしゴ-ギャンのタヒチ行きをすすめたのはゴッホであり、ゴーギャンはその勧めに従い43才でタヒチに渡った。その意味で、ゴッホはゴーギャンの生き方を決定づけたともいえる。
なかにし礼氏はある時期、自ら「どこから来たのか」を明確にしなければ一行も詞が書けない状況に陥ったという。そんな時、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか~」とボストン美術館で出会い圧倒される。
そこには土色にかがやく人間の肌をえがかれている。それぞれのポーズの中に暗示的なものがあり、中央には知恵の実をとろうとする人間の姿が描かれている。
そして人間の知恵がいかに大地を犯してきたのか示しているように思えたという。満州で「赤い月」と黄砂を見たなかにし氏の体験と根源的に響きあうものがあった。
なかにし氏はゴーギャンの絵と「邂逅」し語りあうことで新たな一歩踏み出すことができたという。
実はゴーギャンの絵の背景には13歳の少女テフラとの出会いがあった。
ゴーギャンは褐色だが黄金のような肌に無垢の美しさを見た。そこに装飾のないまぎれもない美しさを見出し、彼女の一瞬一瞬の表情やしぐさを燃え立つような色づかいで描いた。
ただ絵の方は依然売れるほどのことはなく一度は貧窮のためにフランスにもどり、再び訪れたタヒチでは、海岸に掘立小屋をたてて現地の女性と同棲したりもした。
貧窮は相変わらずで、最愛の長女が20歳の若さでなくなった知らせをうける。
フランスで乱闘した時の傷の痛みや病も進行し、死を決意して最後の一枚ときめて書いたのが「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」である。
ゴーギャンが死を決意し人生の総決算として書いたその絵には、強くその命に引き込む力をもっている。
カメラマンの浅井新平氏が、秋葉原事件のあと若者にゴーギャンを見よとテレビに訴えたのは結構有名です。

日本語学者・金田一京助と15歳の少女・知里幸恵(ちりゆきえ)との出会いは、日本人にとっての真の意味での「アイヌ発見」であり、「邂逅」とよぶべき出会いであった。
知里はアイヌ酋長の家柄で、明治36年登別市で生まれ母の姉である金成マツの養女となって旭川に移った。
1918年のある日、アイヌ語研究をしていた金田一京助が旭川の幸恵の家を訪れ、幸恵の言語能力の素晴らしさに驚く。
幸恵はアイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、十代の少女であるのにもかかわらず多くのユーカラを諳んじていた。
幸恵はアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業しており、当時においてもほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。
幸恵は金田一をして、「語学の天才」「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」と言わしめる存在だった
金田一と出会う以前の幸恵は、明治期の政策で、アイヌの人々は文化を否定され民族の誇りを失いかけていた。学校では日本人教師たちから「アイヌは劣った民族である、賎しい民族である」と繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのまま信じ込み、幸恵も「立派な日本人」になろうと、自らがアイヌであることを否定しようとしていた。
しかし金田一から直接「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されたことで、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌとしての自信と誇りに目覚めたのである
アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、幸恵は願ってもない存在であり、幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。金田一京助のアイヌ語研究が、やがてアイヌ学の代名詞にまでなるのに、幸恵の存在ぬきに考えることはできない。
その後、幸恵はアイヌの文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からユーカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。
やがて、ユーカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて心臓病を患い絶対安静を告げられていたにもかかわらず、病気をおして翻訳・編集・推敲作業を続けた。
「アイヌ神謡集」は1922年9月18日に完成したが、幸恵は同日夜、心臓発作のため19歳の短い生涯を終えた
金田一にとって知里幸恵との出会いはアイヌ学者としての将来を約束したが、突然訪れたその死は、深い罪責の念を与え、金田一は19歳の墓石にすがり付いて泣いたという。
事実、それからの金田一京助の生涯は、ある部分償いの日々を思わせる。幸恵の弟の知里真志保に大学教育の機会を与え愛弟子として様々な世話をしたが、やがて真志保は師と決別するのである。
知里真志保は室蘭中学から東大に進み、天才言語学者といわれる存在となり、アイヌ初の北海道大学教授となった。
そうなると姉・知里幸恵は、聖書の「一粒の麦死なずば」的存在であったかのようである。
知里幸恵の「アイヌ神謡集」の「序」は感動的である。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」という切なる言葉で始まっている。

南太平洋におけるゴ-ギャンとタヒチの娘の出会い、そして北の大地における金田一と知里幸恵との出会いは、広く云えば原始と近代の相克の一断面をみせつつ、その悲劇性も含めて似かよった面がある。
そして何より二人の少女が、人生に大したあてどのない年配男に「収斂する」人生を贈ったということである