ひかり祭り

鏡は事物を写しだし、ガラスは事物を透き通す。物質が「写る」「透ける」という日常的な現象は、ようく考えると実に不思議だ。間にモノが存在するのになぜ向こうがみえるのか、モノに物がそっくり写るとは何なのだろう。
物理に興味があまりない私でも「なぜ写るのか」、「なぜ透き通るか」科学したいとう気持ちが少しはおきる。
そこでこういう現象を目のあたりにした古代人も不思議を感じたに違いない、と思う。
日本でも3Cぐらいに銅鏡なるものが製作されたが、銅でできたものなら「写す」ことが目的ではないような気もする。その銅鏡がなぜ宝物になり、権威の象徴のようになったのだろう、と今頃になって疑念がわく。
中華思想にあっては周辺諸国に銅鏡を下賜することにより、その支配圏にある諸国を序列化したということでもある。銅鏡はそれほど大きな所有意義があったのだ。

ところで、銅鏡で何を写すのかというような議論をあまり聞いたことがない
そもそも銅鏡に本当に何かが写るのかということ自体疑問なのだ。ところが中国製だとそうでもないが、国産の銅鏡だと今の鏡と大きく違わない程度に写るのだそうだ。
銅鏡が王や豪族の権威や権力のシンボルになったことを考えると、豪族が身支度を整えるために写したような実用に供したものではない。では一体何を
全くの素人なので私的珍説・沈説をお許し願いたいが、銅鏡が実用に物を写すものではないのと同じく青銅器は実際に戦ったり、音をならしたりするモノではない。どちらかといえば宗教的・呪術的な色彩が強いものである。しかし野外で光を反射させるとキラキラと輝きうるモノであることに共通性があるように思う
ということは、銅鏡にせよ青銅器にせよ太陽崇拝にとって必需のものではなかったろうか、などとと思った。鏡を太陽に反射させるだけで、そこに小さな太陽を実現できる。例えば太陽神の化身ともいうべき女王が即位するに際して、この鏡を使った荘厳な演出が行われたりした可能性もあるのではないだろうか。
複数の鏡をたくみに組み合すともっと神秘な場面を演出できそうだ。
ということは銅鏡も実際は、太陽を写すものではなかったろうか。 ブル-ス・リ-の「燃えよドラゴン」では鏡の部屋で、凶器の義手をもつ悪者との戦いが行われ印象的な格闘シ-ンを演出いていた。あの映画を見ると一人の人物が複数に分裂して見えて、何か荘厳な迷宮をつくりあげていた。
最近公開の「レッド・クリフ」は「三国志」の赤壁の戦いを題材にした映画であるが、兵士がもつ盾をいっせいに太陽にむけて強力な光の反射を作り出し、相手を撹乱させるというシ-ンがあった。
この場面はおそらく「三国志」に実際に記載があるものだと思うが、古代において金属器を使って光を演出することができるということをはからずも示していた
太陽崇拝を行っていた古代人が銅鏡や青銅器に対して特別な思いや「呪術性」を感じたというのはそのへんと関係があるのではないだろうか。それは光の演出のために必要な太陽崇拝グッズではなかったのか
そしてあまりいわれることがないが、新嘗祭や祈年祭のもう一つの側面は「ひかり祭り」ではなかったか
福岡県前原市に平原遺跡がある。この遺跡は在野の考古学者・原田大六らによって発掘され日本最大の銅鏡が発掘された遺跡である。
この墓に眠る主はどうやら女王のようであるが、日本最大の銅鏡は墓の四隅に徹底的に割られた形で発見されているのである。銅鏡がすべて人為的に割られて発見されるというのはただことではない
この割られた銅鏡を接合などした原田大六氏によると日向(ひなた)峠からのぼる太陽光線が、遺体に春分の日と秋分の日には真直線にあたるように位置づけられているという。
割られた銅鏡は、このシャ-マン的な役割を果たした女王が何らかの意味での権威を失墜をしたものと考えられる。それならばこのような立派な墓に葬るのはおかしいということにもなるのだが、ひょっとしたら死後の女王の働きを恐れたがゆえに鏡を割って、この女王の働きを封じようとしたのではないか、などと想像をめぐらせる。
原田大六は、天皇家の八咫鏡と平原遺跡出土の内行花文鏡(46cm)との近似性を推測したが、割られた銅鏡は、あるいは天皇家と平原との女王一族との関係に何らかのヒビがはいったことを示すものではないか。
つまり平原遺跡の銅鏡は日本最大であったが故に砕かれなければならなかったのかもしれない
ところで現在のように鏡にガラスが用いられ、実用的な目的でつくられはじめたのはいつごろか調べたところ、ガラス製の鏡は16世紀スペイン人よってもたらされたものだという。

ところで日本の天皇はその祖神が「天照大神」と言うくらいだから、太陽の光を帯びた存在であったことは間違いない。そして天皇の宮中で今もなお行われている神事は、農耕儀礼と密接に関わっている。
天皇が大嘗祭や新嘗祭でコメを神と食すと、新しい霊がみずからの中に入りこみ、新たな時代・新たな年を迎える、ということになる
柳田国男によると、日本人はもともと米をヨネといっていたという。一般の農民は普通(ケの日)にはアワ・ヒエ・ヒエなど食べており米を食することはめったにない。
神様へのささげものとしてコメがあり、農民はハレの日だけにヨネを食したのだという
つまりコメはあくまでも神への捧げものであり、現在はすべてコメと言っているので、コメが「世俗化」したことになる。そしてその米(イネ)の成長を主宰する役割を果たすのが天皇の存在であったのだ。そのように天皇はコメ作りにおける儀礼と密接に関わってきたのである。
日本の米作りはそういう点でアジアの米作りと一線を画しており、コメに対して特別な思いいれや意味づけを行ってきた日本社会の特質が浮かび上がるのである。
周知のごとく、1980年代まで日本政府は農民を過剰に保護して、国民は国際価格の何倍もする米を食べてきたのである。1993年に、アメリカの圧力などにより細川内閣はコメの部分的自由化をうけいれ、1999年よりコメの輸入関税化がはじまった。コメの部分的自由化で日本人はアジア(インディカ米)を食べ始めた。
コメ自由化の圧力は、結局は日本のカラ-テレビや自動車の集中豪雨的な輸出が世界的な非難を浴びたためでもある。(これは1977年に右翼が経団連ビルを襲撃した事件と関係があるのでしょうか)
日本が無理にも農業を保護していた時代には、かろうじて日本人のナショナル・アイデンティがコメ作りにあるという意識は完全には消えてはいなかった思う。そうした国策と符合するかのように根強く「単一民族説」が存在し、天皇の存在は世界的に見てまだロ-カルな位置づけがなされていたような気がする。
ところが1980年代ぐらいからナショナル・アイデンティティに関してはコメ作りよりも、自動車やICの方向に日本人の特性があるということや、そしてアジアへの日本企業の進出に伴ない「日本人多民族説」が次第に主流となっていったような気がする。
日本人の基層にアイヌであると京都大学の梅原猛氏は唱えたが、それ以外にも日本人の基層が北方にせよ南方にせよアジアとの関わりが深いという学説が台頭してきたように思う。
こういう学説は日本人のアイデンティティの根源を必ずしも「農耕儀礼」には求めない。もっと大袈裟にいえば天皇の存在が農耕儀礼との不可分な紐帯から解き放った点で、従来の日本人アイデンティイの溶解をも意味するのだ。
(日本人がモノ作りに優れて海外進出しているのは実はコメ作りで養った繊細さや細やかさがあるということを忘れてほしくないですね)
評論家の柄谷行人氏はこの点で、アイヌ起源説の梅原猛らの思想はそうした国家戦略を側面から支えたということを指摘している。日本人はもともと国際的でありアジアの様々な血が混じっているという方が環太平洋経済圏(擬似大東亜共栄圏)を確立するのに相応しい、というわけです。
夥しく進出してくる日本企業や日本製品を前にしたアジアの人々は、どんなに戦前の記憶を打ち消したとしても、日本の天皇や皇室がもはや「セロ記号」としてはどうしても受け入れ難くなったのではないか。さらに大袈裟にいえば、天皇がアジア的な色を帯び始めたということだ。
かつて「八紘一宇」など日本神話の超拡大解釈もあったが、日本企業のアジア進出は天皇存在がもはやロ-カルな存在ではありえなくなった、ということでしょう
日本で天皇を政治的にいかにゼロ記号化しようと、外国からみて日本の天皇はそうとは映らないということなのだ。このあたりのアジアと日本のパ-セプション・ギャプ(認識のズレ)は大きいといわざるをえない。
首相・閣僚の靖国参拝におけるアジア諸国の反応に典型的にそれを見ることができるが、最近その反応のあまりのすさまじさに我々自身が愕然とするのである。
太陽の光をあびた天皇という存在。光は透明なものかと思っていたら、内側が黒く塗った紙箱に小さな穴をあけて光を屈折させる簡単な仕掛けをつくると、光が七色に分かれる美しい像があらわれる。
天皇という存在は無色透明のようで外から見ると日本人が思う以上に色彩を帯びている
戦争、敗戦、高度経済成長時代、集中豪雨的な輸出攻勢の時代、バブルとその後の時代などその時々に刻々と色合いを変えていく。その変色に一番気づいていないのは日本人自身なのかもしれない。

福岡市西部の前原市は銅鏡の地ですが、福岡市といえば水鏡の地である。(中洲は酔狂の地です)
京都から博多に流された菅原道真が自分の顔を水面に写して、自分のやつれ顔に哀しみ、清流に臨んで水鏡に姿を写してご覧になり「私の魂は長くこの地に留まり、後世無実の罪に苦しむ人の守り神となろう。」と仰せられた場所が「水鏡の地」です。
この場所は現在の天神にある水鏡天満宮の場所ではなく、薬院駅西にかかる「姿見橋」という石橋がかかったところです。ここは河合塾の生徒の通学路ですが、受験生は「受験の神様」ゆかりの地であることを充分知った上で渡って欲しいと思います。
ここでは、石橋をなでながら渡るというのが、一番無難かもしれませんね。