私流「四つのイドラ」

見ることと認識することは異なり、認識することは曇りガラスに物を写すようなものである。故に人間の心は常に「澄明」であることをこころがけなければならない。
フランシス・ベ-コンは人間の認識における陥穽を「四つのイドラ」としてまとめた。「市場のイドラ」「劇場のイドラ」「種族のイドラ」「洞窟のイドラ」だが、この場合における「イドラ」は偶像という言葉も連想するが、実像にくっついた「影」みたいなものと理解していただきたい。「イドラ」とは結局、人間の認識の「歪み」の問題である。そこで「イドラ」とは何か、ベ-コン自身の思想から外れることかまわず、我流でつらつら考えてみた。

モノには特定の見方が自然に付着している。例えば蛇口はどうみても蛇口でありそれ以外に見えようが無い。こういう存在を「即自的な存在」という。
ところが色んな見方を誘発する存在もあり、それを「対自的な存在」という。人間は「対自的存在」の典型で、先生とみて欲しいとか、妻とみて欲しいとか、女と見て欲しいとか、患者と見て欲しい、などと自然に色々な見方を求めている。「対自的な存在」とは認識の自由度が高い「あり様」ともいえる。
ただ「即時的な存在」も、条件を変えると「対自的存在」となりうる。普通の状態では「便器」は「便器」以上の何物でもないが、実験的に他の美術品に並べて展示しておけば、便器もはじめて芸術品として見られうる。見る側の「認識のスイッチ」が切り替わるのだ
そして見る側は、便器のラインのなんと美しくエロチックなことか、などと生まれてはじめて感嘆するかもしれない。 前衛芸術の要素の一つは、そういう人間の認識のスイッチを切り替えることにある。
私のいう「市場のイドラ」とは市場でモノの価値が定まるように、社会に通用しているある側面の価値のみでモノの価値をはかるという認識の陥穽である。(ただしベ-コンは「市場のイドラ」を言葉の混乱としている)
いい大学を出た人間を立派な人間だと思い込むのもそれにあたる。
そういえばオノヨ-コの芸術の中に、たくさんのお尻の「表情」を捉えたものがあった。一般に表情は顔と結びつけられるが、お尻は顔ほど自己主張が強くないものの、ちゃんと表情があるというわけだ。
お尻は控えめであり柔和である。オノヨ-コが好きな「平和のシンボル」ともいえる
むかしコマ-シャルに、糸居重里の「お尻だって洗ってほしい」というコピ-があったが、そう捉えるとお尻の表情に反応して、「お尻だって笑ってほしい」し、「ビミョ-に泣いていほしい」のだ。
「市場のイドラ」は人間の固定的な価値観の陥穽を示し、逆に視点を少しズラせば「新たな価値」が見えてくるということを教えてくれる。

世間で「業界人」という言葉を聞くが、この業界人という言葉に特に修飾語がついていない場合には、「テレビ業界」(または芸能界)の人々をさしているらしい。
こういう人々の間では、一般に通じない言葉が交わされ、それらを業界用語という。元々、使われ始めた経緯には、「他人に聞かれたくない」「知っているもの同士で」といった内向的な意向があったが、いつしか、各々の業界内での意思疎通を図る意味合いを持つようになった。
例えば、かぶる(先に行ったことと同じキャラ) きえもの(食べ物飲み物のような消耗品)、ロケハン(下見)、板付き(演者が既にステージの定位置にいる状態のこと)などなど色々ある。
私には、こういう言葉を使って日々仕事をしている人々がなにか特別な「種族」のようにも見える。そして「種族」には種族独特の物の見方や考え方があって、その種族独特の生態の中である種の「イドラ」が形成されたりするのではないか、などと思うのである。そしてそれは学問をする人々の集団(学界)とも無縁ではない。
ところで歴史の常識(イドラ)はしばしば「物証」によって突き崩される。そうした「物証」としてまず思い浮かぶのが、「岩宿の発見」である
関東地方では更新世(氷河時代)と完新世をわける土層は非常に分かりやすい。更新世末期に多くの火山が噴火しているので、更新世/完新世は赤い層(関東ロ-ム)によって判別できるのだ。
「岩宿の発見」まで日本では更新世(氷河時代)の人類は存在しないという固定観念があったから、人々が赤い層にぶつかるとそれ以上に掘り進むことはなかった。
このイドラを打ち破ったのは、近くを自転車で行商していた青年であった。切り通しの赤い土の中に確かに石器が存在していたのだ。その後本格的な調査が行われ「岩宿の発見」につながった。
もしもこれが学閥配下の考古学者であったならば、果たして石器を見たか、見たとしても認識したか、「見た」事実自体を否定しなかったか、などという色々な疑問が湧く。
また大いにあり得るのは、その事実を青年のように正当性をもって素直に主張したであったろうか、という疑問だ。学問を飯のタネにしているものがその発見をおおっぴらにして騒ぎ立て、かえって袋叩きにあうことを恐れたかもしれない。
「種族のイドラ」とは、特定の集団(例えば学者という種族)がもつ伝統的な見方あるいは特有な見方にしばられていると、見落としや誤謬がおこるというものである
「岩宿の発見」は「種族のイドラ」を如実に示しているのだが、こういう性格のものはいたる処に見られる。

舞台で演じられる演劇やパフォ-マンスはその劇場の中だけで成立するファンタジーである。人々に夢を与えるためにそれは作り出される一方で、マスコミや人々の噂が作り出す「虚像」が日々多くの人々を傷つけている。このように生み出される実像とは異なる虚像のことを「劇場のイドラ」という。
虚像が一人歩きして人々が踊らされするのも、「劇場にイドラ」に捕らわれているからである。
犯罪捜査にとって「劇場のイドラ」に注意しなければならない。そうした「イドラ」をできるだけ排除するために「物証」が求められる。
そして「物証」として提出されたモノは、前述の文脈からすれば「対自的存在」となる。部屋に落ちていた一本の髪の毛は、単なる髪の毛(「即自的存在」)ではなくなるのだ。
松本清張の作品には人間の認識の「盲点」をついたものが多い。最近のTVであった「疑惑」という作品では、マスコミが一度つくりあげた「悪女」「妖女」をある女性記者が「正義」として追い詰めていくが、その「悪女」が過去に行った慈善活動や被疑者とされた殺人事件で被害者に如何に愛されていたかという事実が、故意に削除されて報道されるのだ
さらに松本清張の小説が「紐」という題でTVドラマ化されたが、犯行に使われた紐がとても面白く扱われていた。都会の海岸でみつかった絞殺死体には首に紐が巻きつけられていた。
ただ刑事は一つの点に注目する。殺人という急場にしては紐があまりにも丁寧に巻かれていた事実である。検視の結果、絞殺であることは間違いないが、あまりに「情」を感じさせる紐の結び方であったのだ。
そして紐に「乱れ」がないのはなぜなのか、つまり犯人の側に「情」があったとしても抵抗されることはなかったのか。一本の紐により通常の「絞殺」にまつわる「イドラ」がすこしずつ崩されていく。
そこで思い出すのは、坂本竜馬が暗殺された部屋にかけられていた掛け軸である
京都の旅館に保存してあるその掛け軸には、暗殺の際に飛び散った竜馬の血痕が残っている。問題は竜馬の血が掛け軸の下方の部分にきれいに水平に飛び散っているのだ
つまり竜馬は座った状態のまま、水平に刀を振られて殺されたことが判明するのだ。その位置関係からして面会して座談するほど親しいもの、すくなくとも顔見知りの男であることが予想される。ある程度気を許せる男から突然に刀を抜かれ、座ったまま水平に切られたというヤヤ間抜けな状況が浮かんでくる。
かつて大河ドラマ「竜馬が行く」で見たように、北辰一刀流の竜馬が刺客と格闘したという剣豪のイメ-ジと、そこから作り出される「劇場のイドラ」は、この掛け軸によって否定された

人間は自分の経験を超えたことについて、たとえそれが事実でも事実として受け入れることをよしとしない。
人々は、阪神大震災の時に目の前に広がる風景をなかなか受け入れがたく、あまりのことに「笑う」しかなかったという人までいた。人間は通常今日の延長に明日があると信じて生きている。
しかし聖書の中に「(神は)いまだ見ず 聞かぬことをする」という言葉があるが、未来が人間の経験を超えたことであるならば、人々がそれを容易に受け入れられないのはよくわかる。
ベ-コンのいうとうり、人間は自分の経験の範囲でしか物事を認識できない存在である。ソクラテスは、人間は洞窟に映しだされる影を真実だと思いこんで一生を過ごしていくようなものだと言った。その結果、表を振り向くこともなく太陽の存在さえ知ることもない、これが人間という「洞窟の住人」の姿なのだ。ベ-コンはこうした人間の誤謬をソクラテスに沿って「洞窟のイドラ」と名づけた
ところでヨ-ロッパで生まれた近代知は、「神なしですまそう」としたに過ぎず「神の存在」を否定したわけではない。アインシュタインは「この宇宙を創造した神は、ダイスゲ-ムをして偶然にこの宇宙をつくったものではない」と語っている。
アインシュタインは自分の学問について、神という想像を絶する知性の持ち主がつくりあげたこの宇宙を、わずかの知識によってその片鱗を理解しようとしたものにすぎないと語った。
アインシュタインの理論は、我々の日常の常識をはるかに超えたところで成立しているように思えるが、「洞窟」から「外界」に目をむけようとした努力の一つであったようにも思う
私が高校時代に聞いた月面着陸に成功したアポロの宇宙飛行士も講演会で同じようなことを言っていた。宇宙に出て「壮大な知性」を体験した、その知性を神の存在と結びつける他はないと。
アインシュタインや宇宙飛行士は、「信仰」を語っているに過ぎないというかもれいない。確かに人間の経験を超えた認識という意味では「信仰」という他はないが、二人の場合磨かれ澄んだ知性の到達点がそうした「信仰」なのだ。信仰と理性は相反すると思う人が多いが、彼らの理性は「信仰の裏づけ」なのだ
ところでベ-コンのいう「洞窟のイドラ」は、井伏鱒二の「山椒魚」を思いださせる。
迂闊にもズ-タイが大きくなりすぎて岩屋から出られなくなった山椒魚であるが、最初は岩屋からでようともがくが、出られないと分かると外界つまり光あり命あるものからできるだけ目を避けようとする。
この小説はいかようにも読める自由度の高い作品だと思う。山椒魚のズ-タイが大きくなったことを持ち物が多くなったとか、勲章が多くなったとかに読み直してみたらどうだろう。
山椒魚の姿が、ベ-コンのいうところの「洞窟の住人」と重なった。