サクラとハナミズキ

一青窈が歌った「ハナミズキ」は、911テロが関係していると聞いた。恋愛の歌のようであり祈りのようでもあるあの歌とテロがどう関係しているのかと疑問を抱いていた。
私が勤務する学校の卒業生が911テロに巻き込まれて亡くなったという事もあったが、一青窈が「ハナミズキ」を作ったのもテロに彼女の友人が巻き込まれたからだそうだ。
その友人の命は助かったものの、その出来事から多くの人々の死を思い、自分が好きな人つまり恋人や家族や友人などの幸せだけではなく、好きな人の好きな人つまりみんなの幸せまで願って「君と君の好きな人が百年続きますように」という歌詞を書いたという。
彼女の歌心は素晴らしいが、ちょっと聞きにくいのが難点です。「翡翠(ひすい)}という歌に、待ち焦がれてた意地悪なあまさん、というのがあって、あまさんって尼さんのことか海女さんのことかと腸がヨジレルくらい悩んで歌詞の意味を考えていたら、正しくは「意地悪な甘さ」でした。
しかし、「ハナミズキ」の歌詞の曖昧さには意味があるのかもしれない。誰が誰へ伝えたい願いなのか不明なのだが、何かを失った人の哀しみは色々な形があって、それぞれの人の思いを託せるようにという意図がこめられているのもしれない。

ところで、現在ワシントンのポトマック河畔には日本から送られたサクラが市民の心をなごませている。毎年春になると、河畔は満開の桜で覆われ、水面に映る美しい景観を楽しむ人々は60万人にのぼる。
このサクラは日米友好のシンボルとなっている。日露戦争の際アメリカのセオドア・ル-ズベルト大統領が日本とロシアとの戦争を仲介し日本が勝利を得ることになり、日米友好の機運が高まっていた。
日本からサクラが送られた直接のきっかけは、次期大統領になるウイリアム・タフトが陸軍長官であった頃、その夫人とともに上野公園を訪れた時のことであった。
その時上野公園でソメイヨシノの美しさに心を奪われた夫人が、ポトマック河畔を埋め立てできた新しい公園に何を植えるか考えた時に、上野でみたソメイヨシノを思い出したという。
そして夫人の友人である「日本での人力車旅行」などを書いたジャーナリスト、エリザ・シドモアが大の日本びいきであったために、その思いに賛同しその実現を促した。
たまたまニューヨークに住んでいた科学者で「タカジャスターゼ」でしられる高峯譲吉などを通じてタフト大統領夫人の思いが外務省や東京市長だった尾崎行雄に伝わった。
尾崎は「憲政の神様」と呼ばれ太平洋戦争でも日独同盟よりも親米的な人物であったことも幸いした。
だが、最初にワシントンに到着した2000本の苗木は、害虫に感染したことがわかり焼却処分された。その後、万全の体制で育てられた苗木11品種6040本が「阿波丸」により再送され、1912年3月シアトル経由ワシントンに無事到着した。
その送られた桜の苗木は、東京の荒川堤の五色桜を穂木にして、台木づくりは、大阪伊丹市の植木の産地東野村で育てられたものであった。
  その後、ポトマック公園にジェファーソン記念堂が建てられてサクラの木が切り倒されそうになった時に、アメリカ市民が女性を中心に体をサクラの木に結びつけて反対したという。
敵国の女性にそういう思いさえも抱かせるのがサクラの「生命力」ということかもしれない
ところで私の住む近くの町・桧原にはサクラをめぐる素晴らしいエピソードが残っている。
1984年道路拡張でサクラを切り倒すことになったが、ひとりの人物がせめてサクラが開花するまで20日間だけ待って欲しいという色紙数枚をこっそりとサクラの木にゆわいつけた。
すでに蕾いっぱいの木が無残にも伐られていたが、この色紙により翌日も次の日も木は伐られなかった。心ある業者の執行猶予だったのだろうが、ここから共感の輪が広がっていった。
そのうちサクラの受難を知った様々な人々の色紙や短冊やらが木に結わいつけられ、サクラを守ろうという互いに名も知らぬ人々の輪がますます広がっていった。
たまたまジョギングで通りかかった九州電力の社長が面白い事が起こっていると広報室に伝え、それが新聞社に伝えられた。当時の進藤一馬市長がその記事を読んだため、道路拡張工事は伐採が猶予されついにはそのサクラの木八本は生き延びたのである。「桧原桜」として地元で知られている。
見ず知らずの人々が何も語らずに結んだ「心の輪」がむすんだめくるめくエピソ-ドである。
ところで1992年、ポトマック河畔80周年祈念植樹祭には、タフト元大統領夫妻の墓に桜の木が植えられた。この植樹記念祭に出席した人々の顔ぶれも面白い。
東京市長尾崎行雄の子孫・原不二子さんそしてウイリアム・タフト四世、高峰譲吉のお孫さん、当時の栗山駐米大使、1912年当時の駐米大使・珍田氏の孫などである。

ところでハナミズキはサクラの花を引き継ぐように5月から6月に咲く花である。ピンクと白の十字の花を咲かせる。実はサクラと同様にハナミズキも日米友好の花である
タフト元大統領夫人からサクラのお返しにハナミズキが送られたのである
ハナミズキの送られた原木は太平洋戦争の経過とともに行方不明となったが「日米友好のシンボル」が行方不明であってはならないという有志の人々の地道な調査によって、その原木が都立園芸高等学校(世田谷区)・農水省果樹試験場興津支場(静岡県清水市)・小石川植物園(文京区)に残っているとが判明している。
なお国会前庭にある尾崎行雄憲政記念館はにはハナミズキの並木があるが、こちらは原木ではなく1958年に新たに贈られた木であるらしい。
もともとは国会や皇居にも近い日々谷公園などにも送られてきた原木が植えられたのだが、日米関係が悪化し太平洋戦争にむかうにつれ、敵国から送られた「ハナミズキ」などは目に触れてはならぬとばかりに兵隊によって切り倒されていた。
日比谷公園といえば、日露戦争で勝利したものの賠償金が取れなかったと市民が不満を爆発させ焼き討ち事件が起きたり、太平洋戦争時には食糧増産のために、あるいは飛行機の燃料をつくるために、いちめんイモ畑になり、敵のB29を撃つために、高射砲の陣地にもなり、日米友好のハナミズキが植えられて生き延びるにはあまりにも土地柄が悪かったようだ。

一青窈は、父が台湾人で母が日本人の東京育ち。父親は金鉱経営で成功し台湾の五大財閥に数えられた顔一族の長男・顔恵民であった。戦前から戦後にかけて日本に長く滞在していた父と母が出会い、台湾で窈が生まれた。ただ父母とも早く亡くしている。
彼女のデビュー曲「もらい泣き」は、彼女が失恋した時に横浜の友人に電話をかけたところ友人は遠くから駆けつけてくれ、ただただ隣で「もらい泣き」をしてくれたことに対し感謝してこの歌詞を書いたという。
失恋した友人を慰めようとして書いた岡本真夜の「Tomorrow」とは反対の立場で書かれた、結構わがままな歌ですね。
ともあれ、彼女がアメリカより日本より送られたサクラのお返しにアメリカよりハナミズキが贈られたという事実を知っていて、911テロ後に「ハナミズキ」と題する歌をつくったのはなかなかのものです。
彼女にのエッセイ「明日の言付け」によると、ツア-の最中に尾崎行雄のお孫さんから一枚色紙をもらったそうだ。 その色紙には、「人生の本舞台は常に将来に在り」という故尾崎行雄の言葉があったという。
なお、ハナミズキの花言葉は、「あなたへの返礼」もしくは「私の想いを受けとめて」である。