花の髪飾り

生命科学者・福岡伸一教授が書いた「できそこないの男たち」は、ちょいと衝撃的内容のだった。福岡氏は、分子生物学の見地から、男を男たらしめる秘密のカギSRY遺伝子について興味深く論じている。
それによると、男(染色体XY)は、生物の基本仕様(デフォルト)としての女性(染色体XX)を無理やり作り変えたものであり、そこにはカスタマイズにつきものの不整合や不具合がある。
つまり、男は女のできそこないというわけだが、その結果、カスタマイズされた男の遺伝子だけに欠陥が多く、病気にかかりやすく、精神的にも弱いという。
この説がどこまで当たっているのかは良く分からないが、少なくとも以下の二人の女性を見るかぎり、男だったらとっくにクタバッテいただろうに、などと思わざるをえないのだ。

2009年5月、アウンサン・スーチー女史は、ミャンマー軍政により無断で自宅にアメリカ人接触したと国家防御法違反の罪で起訴されその判決の行方が懸念されていたが、8月11日、3年の懲役が1年6か月の自宅軟禁に減刑され、ひとまずほっとした。今回の自宅軟禁の言い渡しは3度目となる
  スーチー女史は、1988年母親の病気のため本国ミャンマーに帰国して以来、ミャンマー民主化のシンボルとなり、それがゆえに軍政の監視下つまり軟禁状態となり、自宅の電話が切断、自宅の門とその前の道路が閉鎖、二十四時間兵士の監視下に置かれ、特別な許可がない限り出入りできない状態に置かれ、家族とも会えない状況が続いてきた。
スーチー女史は、1972年26歳の時結婚している。相手はオックスフォード大学で知り合ったヒマラヤ文化の研究家であるイギリス人のマイケル・アリス氏である。アリス氏はガンのため1993年に亡くなっている。
ス-チ-女史は1991年ノーベル平和賞受賞時にも自宅軟禁は解かれることはなく、授賞式には彼女に代わって当時18歳の長男と14歳の次男が出席している
ところで、日本とミャンマー(ビルマ)は、「戦場にかける橋」「ビルマの竪琴」などの戦争映画の舞台としてよく知られているが、ミャンマーの現状が歴史的に見て日本との深い関わりの中にあったことはあまり知られていない。
日本と中国と戦争した際、アメリカやイギリスがビルマの港から陸揚げされ中国の蒋介石政権へと輸送する物資を遮断する必要があり、ビルマに親日政権をつくる必要があった。
そして初期において経済界や軍人の中にイギリスからの独立を支援しアジア解放を果たそうという理想があったことも否定できない。
南機関は、ビルマの建壮な若者30人を選んでビルマと気候のよく似た中国・海南島で地獄の猛特訓を施しビルマ軍政の基礎を作ったのである。
この日本が育てた「三十人志士」の中には、スーチー女史の父・アウンサンや、その娘スーチーが将来戦うことになるビルマ軍政独裁政権のネ・ウインもいた。
もっともアウンサンは、当初日本軍と協力してイギリスと戦おうとしたが、ビルマ独立を認めずイギリスにかわり植民地化しようとした日本軍に対して、当面の敵は日本だと考えを転換し、兵をひるがえして日本軍と戦うことになる。また、アウンサンと行動を共にした南機関には帰国命令が出され解散させられている。

1945年日本が敗戦し、アウンサンらはイギリスから1947年に独立を勝ち取るが、あと5日後に新憲法発布の時、英雄アウンサンは政敵によって暗殺されてしまう。
この時アウンサンは、弱冠32歳で、スーチー女史はわずか4歳であった
その後、スーチー女史はインド外交大使となった母に連れられインドで過ごし、1964年、19歳でオックスフォード大学に入学をし、1985年10月から86年6月まで、日本に滞在し父アウンサンの行跡を調べている。そして父親を知っている人々つまり南機関の関係者等ににインタビューして子供達は日本の小学校に通っている。一応、京都大学客員研究員として在籍したが、相当部分「父の面影」を求めての日本滞在であったと思う。
この時、スーチー女史は日本で市川昆監督の「ビルマの竪琴」(1985年)を見ている。が、岩下志麻主演の「婉という女」(1971年)について、知るよしもなかったと思うが、私はスーチー女史と「婉という女」にある共通する運命を感じた。
スーチー女史は「民主化」の政治的シンボルであり、日本の鄙びた土佐の儒学者・野中家という一族の話であるが、「女性の強さ」を思わされる点でも共通部分がある

土佐藩の家老として積極的に藩政改革にとりくんだ野中兼山は、あまりにも強硬な政策を実施したため周囲の怨嗟をかい蟄居を言い渡される。
例えば、用水路の建設、田野の開墾、港湾の改修などの公共事業では抜群の成果をあげたが、米価の統制、年貢の金納化、米の売り惜しみの禁止、専売制の強行などの商業統制、さらに、新桝の決定、火葬の禁止、領民の踊りと相撲の禁止などの社会統制などは苛烈を極め、厳しい改革が長引けば不満がでてくる。そして家中には兼山の方針を疑い、兼山の人格を嫌う者が次第にふえていく。
こうして兼山は反対派の策謀によって失脚し蟄居させられ、最後は自殺とも病没ともわからぬ状況で亡くなる。そこに追い打ちをかけるように野中家お取り潰しが裁定された。
権力争いで負けた家老の家族全員を跡継ぎの男子が絶えるまで一家全員を閉門蟄居させるという処分のため、残された家族と子供たちこそ悲惨であった。「門外一歩」が許されず、誰と会うことも許されない。つまり藩の監視の下での軟禁生活を強いられることになる。この時、婉はわずか4歳であった。
長女は嫁いでいたのに宿毛(すくも)に送られて死に、長男は病死、次男は狂死して、ほどなく男系が途絶え、娘3人の寛・婉・将と母と召使いは幽居させられたまま外出もかなわず、母娘は実に40年間を世間と交わらずに暮らした。
今井正の同名の映画では、閉じ込められているうちに近親相姦に走る兄や、娘は非常に観念的に憧憬の対象の男を思い続けるが決して接触を許されななどといった壮絶な内面をも描いている。
母娘は、長すぎる辛苦の時を何度も自害し果てようかと思いつつも、弟の狂い死にを見て気を取り直して生き抜くことを選んだ。
「婉という女」は、幼くして指導者的立場である父を失ったこと、藩の監視所でその行動は常に監視されるという軟禁生活として送った点で、スーチー女史と似通ったところがある。
その婉も40代半ばとなり子供を作れない年齢になってようやく解放される。その後婉は、驚いたことに、高知市郊外の朝倉の地で医者として活動を始めるのだ。
幽閉されてきた婉がどうして医学の術を身につけたのか不思議だが、父親から受け継いだ儒学だけでななく、出入りした医者から知識を得たと思われる。医者の話をきき、文通を通じて意見を交換した。
さらに近くの野山を歩く中で薬草についての豊かな知識を身につけたという。
手足がもがれたような異常な生活が40年も続いた中で得てきたものがあった。それは、家族の命を自らの力で守るための知識であったかもしれないが、それが結果的に地域医療に尽くす女医としての仕事につながる。
軟禁生活という観点から見ると、スーチー女史は、ミャンマー・民主化要求のシンボルとして軟禁状態にあっても一般の人々の圧倒的な支持があったのだが、婉の家族の軟禁の場合はまったく孤絶した状況であった。
婉の父・野中兼山は藩政改革の過程で政敵をつくり命を落としたが、土佐藩の改革で野中兼山が果たした役割は大きく、兼山なしには坂本竜馬も中岡慎太郎も存在しなかっただろう。
二人の女性の強を思う時、彼女らは偉大な父親のおぼろげな背中を追っていたということかもしれない。

ところでスーチー女史と婉との間に接点があるはずもないが、婉の故郷・土佐高知とミャンマーの関係がないかと調べてみた。
高知市のはずれに五台山という山があり、そこの吸江寺(きゅうこうじ:臨済宗)の境内にミャンマー式仏塔すなわちパゴダが建っている。このパゴダはビルマ戦線でミャンマーで亡くなった高知県人の慰霊塔だそうだ。
さらに五台山は日本の植物学の祖・牧野富太郎を記念した牧野植物園があり、実は「婉という女」の作家大原富江の遺作となったのが牧野富太郎をあつかった「草の褥に」(小学館)である
さらに調べてみると牧野植物園とミャンマーとの意外な関係を知った。
牧野植物園では、2003年ミャンマー林務省との共同事業「ミャンマーフロラプロジェクト」を立ち上げ、 花卉、食品、医薬などに使うことのできる新たな有用植物の開発研究を行う為に「資源植物研究センター」が設置された。
ミャンマーは、地球上で有用植物(医薬品資源、食品、繊維、木材等)が豊富であるにもかかわらず、それらの調査研究・開発が進んでいない少数地域の一つであり、一方、近隣国からの違法採取や焼畑等により資源植物が急速に失われつつある状況がある。
この危機的状況は、この分野の研究・開発に携わる人材不足に依るところが大きいが、豊かな自然や資源がありながら、世界の最貧国に位置づけられたミャンマーの経済情勢は、やはりミャンマーの軍事独裁政権の「負」の側面と見ざるをえない

スーチー女史は父親が殺された後、母親がインド大使となったためインドの高校を卒業し、インドの女子大ではガンジーの思想にふれた経歴がある。スーチー女史は、髪に庭先の花飾りをつけて現れるが、その花は平和のシンボルだという。
江戸時代中期、「婉という女」が、宿毛の野辺を「花の髪飾り」つけてを歩く姿を想像してみた
婉の場合、その「花の髪飾り」は、40年余りの幽閉の時を不毛に終わらせなかった、女性の強さのシンボルといえようか。