保革連立夫婦

アルゼンチンでペロン大統領夫人となったエビータことエバ・ペロンは、学歴なし家柄なし金なしの街のスパンキーガールでしかなく、そんな彼女が大統領夫人にまでなりえたのは奇跡のような話である。
ただ大統領からみて、彼女の女性として魅力をどう感じたかは知らないが、彼女の他人にない能力つまり労働者階級のリ-ダ-と渡り合える能力は、間違いなく利用価値のあるものだった
将来の夫、ペロンが獄中にあった時も、労働者階級達幹部に働きかけ反政府運動を盛り上げ、ペロンを釈放させるほどの神通力を発揮したのだ。
町の底辺を生きる人々と多く交わった経験によって彼女はこういう力を体得したのだろうが、今のマスコミならきっと彼女の秘められた過去に飛びついたかもしれない。
エビ-タだって、非常に厳しい経済状況の中で生活して、色んなことに挑戦し生きるために必死で仕事をしてまいりました、のだ
ただしエビータは中国の江青女史と同じく過去を暴くものに容赦しなかった。
しかし結局、ペロン大統領は民衆の圧倒的な人気を基盤とするエビータを副大統領とすることを拒否し、彼女は病のために33才でなくなった。ちなみに次の妻は副大統領にしている。
このあたりはエリートである大統領と町の女エビータというかけ離れた者同士の結婚の限界かとも思うが、それでも互いによく支えあったのは立派というべきだろう。
日本では異教徒間の恋愛や結婚が問題になることはあまりないが、それに近いのは1960年代学生運動が盛んなりしころ、恋人達がそれぞれ違う大学における主流セクトに入ったが為に、無残にも恋を引き裂かれたカップルも結構いた。
団塊の世代の青春のバイブル・高野悦子の「二十歳の原点」にそんなことが書いてあった。

最近日本では政治家のカップルは結構いるようだが、1956年に誕生した園田直と松谷天光々の結婚は、いまほどマスコミ報道が過熱してはいなかったものの、「白亜の恋」として世間の注目を集めた
ちなみに「白亜」とは大理石でできた国会議事堂を意味する。
園田氏と松谷女史の二人は49年に恋愛関係になり、最初は「虚偽報道」と否定していたものの、やがて妊娠という「厳粛なる事実」が明らかとなり、松谷は父の猛反対を押し切って駆け落ち同然に同棲し結婚し、同年中に出産した。
この結婚はマスコミの餌食になる要素はあり過ぎるほどあった。まずは園田氏に妻子があってそれを捨てての結婚であった。
また松谷女史は戦後第1回衆議院選挙における当選した女性代議士第一号39人の一人で、その中でも27歳最年少として話題を集めた女性でもあった。
園田氏は、驚くべきことに再婚ならぬ「再々婚」で五人の子供がすでにいたこともあった。
また「白亜の恋」顛末の一番のポイントは、園田氏が自由民主党で松谷女史が社会党代議士であった点である
55体制確立の翌年56年に入籍しているので保革対立の真っ只中で中での結婚だったから、「異教徒」間の結婚に近いものがあった。
何が二人を結びつけたかは第三者がとやかくいう筋合いのことではないが、ただ政治家になる前の両人は苦労人であったことは共通していた。
園田氏方も肩章を外した軍服に長靴で国会に現われ周囲を驚かせ、松谷女史は開会式にモンペ姿で臨み話題となった。服装などに頓着しないところは似た者同士といえた。
園田氏は熊本天草の町長の長男として生まれたが、大阪歯科医学専門学校(現大阪歯科大学)に進学するが徴兵されたために中退し入隊した。最終的に落下傘部隊の特攻隊長で終戦をむかえ、戦後は天草で村長となった。
1947年、衆議院議員にて初当選した。日本民主党を経て自由民主党結党後は河野一郎に仕え、その後福田派の中心的存在として活躍した。
園田氏は学歴がないことを恥じており、1960年、長男の日本大学入学をきっかけに自身も同大学の通信教育課程に入学し、学士号取得を目指した。
しかし既に有力議員であったため学生生活を送っている時間はなく、スクーリングやレポート・試験に至るまでほとんど秘書に任せていた。
ある時田中角栄にアンタはとっくに教える立場だと笑われ、それもそうだと納得して退学したという。
一方、松谷女史の方は東京の実業家・松谷正一の長女として生まれた。「天光光」という個性的な名前は、政治好きの正一が「明治維新の志士のような革命家になって欲しいという願いを込めて命名したとされる。ちなみに、次女は「天星丸」三女は「天飛人」といずれも個性的な命名をされている。
早稲田大学法学部を卒業後、戦時中は軍省報道部嘱託を務めていた。戦後、川崎市に疎開して暮らしたが、ラジオ番組で上野公園で餓死者が累々と横たわっているとの放送を聞き、すぐさま父親とともに、生まれ故郷の上野に赴いた。
そこで飢餓線上で苦しむ路上の人々をつぶさに眺めると、帰宅途上新宿で途中下車し、街頭で現状の危機打開を熱っぽく呼びかけた。やがて彼女の演説に共鳴した人々とともに「餓死防衛同盟」を結成し、食料の調達ルートの開拓や、官庁・議会への陳情・デモを行った。
1946年、父親の友人の勧めもあり、衆議院議員選挙に「餓死防衛同盟」で立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となった。当選後は日本社会党に入党した。代議士としては園田氏の一期先輩である。
ところで園田氏は1967年厚生大臣に就任し、氏の政治家としての功績の第一は現職厚生大臣としては初めて水俣市を訪れ、水俣病に苦しむ患者のやその家族に謝罪、水俣病を公害病に認定した点である
もちろん園田氏が天草出身で水俣病に強い関心をもったのは当然としても、保守の政治家としては公害病認定は大変勇気の いることではなかったかと思う。
高度経済成長の下で、大企業寄りの政策を官民一体としてやってきた保守政党の大臣としての公害病認定は、いかに世論が高まりつつあったとはいえ、その政策路線に「待った」をかける含意があったからだ。
自民党代の大臣として、公害病認定に積極的に動いた点では、特筆すべきことだと思う。
また、福田赴夫首相時の日中友好条約の締結にける外務大臣としての功績も大きい。1978年、外相として日中平和友好条約に署名・調印し、締結を果たした。
一方、松谷女史は市川房枝らからも「無節操」と批判されすっかり悪役となった彼女はその後4回出馬するも全て落選した。一時離婚騒動もあったが、1960年頃から夫のサポートに専念し、自らは名刺に「園田直の妻」と書いていたそうだ。こういうのは平安時代の女流作家「○○の女」など浮かべます。

ところで、松谷女史つまり園田夫人はあるインタビューで次のようなことを語っている。
上野駅など各地で餓死者が出た悲惨な状況に居たたまれず、少しでも祖国復興のお役に立ちたい、それには女性が立ち上がらなければとの一心だったという。
妻子ある園田直氏と出会ったことが、人生の最重大事だったという。世間は大騒ぎで新婚旅行から帰って後、夫の嘘がわかった。子どもの数、結婚の回数もちがったそうだ。自分で選んだ道だから自分に負けるわけにはいかない。
松谷女史はまた「私はね、いいことしか覚えていない。人を見るときは長所だけを見る。そうすると、楽なんですよ」と言う。
また、夫と情だけで結ばれていたらとっくに別れていたとも語っている。政治家として同じ目標を持つ同志の結びつきがあった。その気持ちに迷いはなかったという
また、男性を敵にするのではなく、共に社会を支えているという視点が必要だとも語っている。
相当な精神力を感じさせる女性だが、ここを突破しなくてはという、その時その時の気力を重ねていくうち、胆力になるという。
松谷女史は三度の大病も乗り切り、いまも日本・ラテンアメリカ婦人協会々長や能楽の記念財団理事長など15の団体に関係してる。現在御年90歳である。
また「肝力」といえば、園田氏にもエピソードがある
引退したマッカーサー元帥と会うためニューヨークのホテルをおとづれた時、そこに盃の底に菊の御紋章をみつけそれが天盃(天皇から賜る盃)である事がわかった。
同行者は、ほかに灰皿はなくやむなくこの「灰皿」を使い続けたが、人間の脂肪の焼ける臭いがした。同行者がふと見ると、園田氏がてのひらでタバコを消している。その表情には何の変化もなく、瞬きすらしなかった。
  帰りのエレベーターの中で、園田氏が同行者に、君はよくあの天盃が使えたなぁと言った。園田氏の掌には大きな水ぶくれがあったという。

最近、新人代議士が立候補するたびに過去のXが暴かれスキャンダルとなってるが、園田氏と松谷女史のスキャンダルからみればそれは稚児にも等しく思えてくる。
何しろ現職国会議員同士の不倫による妊娠・出産事件で、日本憲政史上あまりにも突出した醜聞であった。
しかし園田氏は醜聞などナンノソノ立派に政治家として責務を果たし、衆議院選挙当選は通算15回を数えた。そして1984年4月、急性腎不全のため70歳で死去した。
その背後にはかつて新宿駅で「飢餓防衛」を訴えたモンペ姿の松谷女史の巨大な影を感じる。

過去を暴かれ苛められている新人代議士は、園田・松谷の「保革連立夫婦」の「肝力」に学ぶべし。