私は灰になりたくない

私は昔ポ-ランド映画で「灰とダイヤモンド」という映画を見たことがある。
いささか妙な記憶回路をもつ私は、この映画のタイトルから「刑事コロンボ」のあるスト-リ-を思いおこした。
ある葬儀屋が盗んだダイヤモンドを密かに死人の口におし入れて隠し、火葬炉の中からダイヤモンドを拾い出して我が物とするというスト-リ-である。
アメリカの火葬炉はあまりに熱が強くて人が灰になってしまい、灰とダイヤモンドしか残らなかったということだが、想像したら胸締め付けられる話ではないか。
人間が跡形もなく消失するのはつらい。死者としても「骨まで愛して」とまではいわずとも、骨ぐらいは立派に残っていて欲しいのではないだろうか。
そういえば中原中也の詩に「骨」と題するものがあった。

ホラホラ、これが僕の骨
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て
、 見てゐるのかしら?

日本ではいまなおビルマへ、ソロモン群島へと遺骨集集団がでかけている。かつての戦地に遺族が遺骨を集めに行くというような行為はおそらく日本人だけがやっているのではないだろうか。
「仏舎利」はブッダの骨ということだが、ブッダの骨なら聖なる骨として尊崇されようが、亡くなった人の骨をここまで大切にしようという気持ちの強さは、日本人特有のものだろう
そして火葬は罪人に対して行う火刑を連想させるし、「復活」を信じる欧米ではむしろ土葬の方が一般的であるようだ。
日本では700年に道昭という坊さんを火葬にしたのが第一号で、最初の火葬の天皇は持統天皇である。
そして現代の日本では埋葬法で定められおり90パ-セント以上が火葬に付される。ちなみにお隣の韓国での火葬率は10パ-セント未満にとどまっている。
殺人事件などがおこると死体は火葬されず土葬になるのだが、松本清張の短編に池の下側に埋もれた死体が池の成分を変質させ 魚が太り出し、死体隠匿が発覚したという話も思い浮かべる。
欧米の場合は、遺骨よりも遺体の収容に重きを置いている
パ-ルハ-バ-には、日本海軍の奇襲攻撃で沈められた戦艦アリゾナが眠っているが、艦内には千人を超す将兵の遺骨もそのままになっている。
ところが乗組員の遺骨をなんとかしようという声はまったくあがらない。
そんなアメリカでも戦時における遺体収容への思いは強いようだ。敵に包囲されてヘリコプタ-が接近できない場合、戦死者をいったん埋めて退散して、その後で収容に戻ってくるのだ。
日本人の遺骨への強い思いを示している物語としては「ビルマの竪琴」がある。
ビルマに侵攻しイギリス軍の捕虜となった日本兵小隊の一人・水島が行方不明となった。その後水島に似た僧が竪琴を奏している姿が、各地で見られるようになった。
しばらくするとそのビルマ僧が行方不明の水島とわかり、日本兵達は共に帰国することを勧めるのであるが、水島は亡くなった戦友たちの骨を拾い集めるためにこの地に残るという。
自己主張することの少ない水島の心に宿った遺骨蒐集への強い思い、それが「ビルマの竪琴」のモチ-フなのだが、日本人の遺骨への思いの背後には一体何があるのだろうか。
骨にはその人の霊魂がやどるという思い、その人がこの世に存在したという究極の形見、それが野晒しにされていることはとりもなおさず霊魂がさまようことでもあり、何とかしてあげたいという気持ちに突き動かされるのだろう。
私は火葬に立ち会ったことはない。しかし知り合いの話をきけば火葬は人をいたたまれない思いにさせるという。死のショックよりも火葬のショックというのが後をひく、と聞く。死んだだけならば肉体はまだそこにあるのだが、火葬後にその肉体が灰にまで極限されることに誰しもが衝撃をうけるのだ。
そこで「人に優しい火葬」というものはないのかと考えた人ががいた。
鳴海徳直という、火葬炉の開発により勲章をいくつももらった人物である。鳴海氏の火葬炉の開発の動機は、自分の母親が粗末な施設で火葬さらたことへの慙愧の思いだったという。
この人物の努力により、できるだけ原形をとどめるように絶妙な火加減が実現した。それは「芸術的」といわれるまでの火葬技術なのだ。
鳴海徳直氏の技術開発へのコンセプトに柿本人麻呂の歌があった。つまり「野焼き」だ。

こもりくの泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹にかもあらむ

空にたなびく雲のおうな煙を自分の妹を焼く煙かもしれない意味の歌をのこしているが、鳴海氏は、遺体に短時間に熱量を加えると火葬炉内で急激に変形することがいたたまれず、「野焼き」の環境に近いものを実現しようとしたのである。
野焼きは比較的低温で行われほとんど熱による形状の変化を受けないので、自然のまま火葬され収骨ができる。 薪と藁を組み合わせることによって発生した均一な温度が、遺体の可燃成分に静かに働きかけ、上昇気流に乗って運ばれてきた空気により、自分自身で燃えることができるからである。
遺体を焼く煙が黒々と濛々立ち昇ったならば、人麻呂の歌もあのような静かな哀切の歌ではなくて、慟哭と断腸のフンダリケッタリの歌になってしまう。
日本の野焼きにおいて遺体にやさしく火がまんべんなくいきわたり、白い煙がたなびくごとく、つまり雲として天にあがっていく風景がそこにあらわれていくのである。
そこで野焼きの原理を火葬炉の構造にとりいれ、白雲が天にのぼっていくものを実現できるというわけだ。
一応、法によって火葬が定められているため「私は灰になりたくない」という故人の意思は尊重されていいない。私は「環境に優しい技術」とか「人に優しい医療」とかよく聞くけれど、それ以外にも、遺族にとって「もっとすがしい埋葬」「もっと楽しく葬送」などというのはあってもよいのではないのか、と思う。
アメリカでは人工衛星で遺灰を打ち上げ永遠にカプセルが地球を回り続ける「宇宙墓地」なんかも計画されているが、日本では散骨でさえも認められていない。
石原裕次郎の海への散骨は行政当局が難局を示し、ついに実現しなかったという話は湘南あたりでは有名である。もっとも「葬送の自由をすすめる会」は死者を葬る方法は各人でいいはずと、自由化を求めて監督官庁に働きかけている。

死後の「復活」などという話を聞いて多くの日本人ば一笑にふす。しかし「ジュラシック・パ-ク」は自然に凍結された蚊の吸ったが血から恐竜のDNAが採取され古代ジュラ紀の恐竜が再生する話だ。
人間でさえも、遺伝子の断片さえあれば、ある人間を生物学的によみがえらせる技術を手にいれている。
エネルギ-保存の法則により、一度この世に生れ落ちた人間を構成した物質は拡散しながらも宇宙のどこかにとどまっている。(もちろんこんなことが復活の根拠にはなり得るとはとうてい思えませんが)
後は霊魂の問題だが、旧約聖書(エゼキエル書37章)には「復活」に関する次のような迫真の記述がある。

彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。

さてさて今の気持ちは、~~~~ 音楽でも聴いて、私はハイになりたい