汝貪るなかれ

自動車会社GMの経営破綻にともない、黒沢明監督の映画「天国と地獄」を思いうかべた。
三船敏郎演じる製靴会社重役・権藤の元に息子を誘拐したと電話が入る。しかし誘拐されたのは社用車運転手の一人息子だった。
山崎努が演じる誘拐犯人は、貧しい環境に暮らすインターン(研修医)で、常日頃窓から見える大邸宅で裕福に暮らす権藤に対して一方的に憎しみを募らせた上での犯行であった。
この映画の一つのハイライトは大邸宅の書斎で権藤が意外な経歴を語るシーンである。権藤は16才で靴作りの見習い工として入社した叩き上げで、研修医である男にそんな嫉妬の感情を抱かれるほど恵まれた人生を送ってきたわけではない。
犯人は現金を手に入れるがヘロイン中毒で死亡してしまい、子どもはどうにか発見され助けられるというストーリーだったと思う。(間違っていたらすいません)
「靴作り」を地道に積み上げてきた人間と、才知溢れながらも現状に不満を募らせ一攫千金を狙う人間の「天国と地獄」の分岐点を、この映画は伝えたかったのだと思う。

アメリカはモノ作りをやめてしまったのか
昨今、アメリカのウォール街に生きる者達にとって、コツコツとモノづくりに励むことは、随分間の抜けたことに映るのではなかろうか。モノ作りはいくつかの段階を経て利益を回収するものであるから、とてつもなく時間がかかる。
宇宙産業や軍事産業で学んだ工学的知識を金融にあてはめて投資すればまず間違いなく簡単に金を手にすることができる。そんなウォ-ル街の手っ取りばやく富を得たいといういう考えがアメリカの国力を衰退させているのではないか。
宇宙産業・軍事産業・航空産業で優位に立つアメリカ人はモノ作りができないほど無能であるはずはない。
最高に優秀な頭脳が自動車や家電の大量生産産業にむかわなかったことがあったとしても、基本的に生産の現場の士気(モラ-ル)の低下が「モノ作り」を弱体化させている原因だと思う。
極端なまでの株主至上主義は生産現場におけるモノづくりの意欲を損なっている
企業の至上命令は、株主への利益の還元であり、収益性やキャッシュフローが最重要と考える経営陣に働く現場を重視する姿勢があるだろうか、また時間をかけて生産工程の改善やリスクの高い新規技術の導入を積極的に行うことがあるだろうか。
結果として出来上がった製品には不良品や欠陥が多くマーケットで信頼をえることができず競争力を失っているのではないかと思う。
不良品の代名詞たるマンデーカーやフライデーカーなどの言葉あるくらいに製品への信用を失ったのである。(労働者の気分の問題で、月曜日と金曜日に生産された車は不良品が多いといわれている)

20年ほど前、アメリカのレ-ガン大統領は貿易赤字の原因を日本の「市場の閉鎖性」にもとめ、日本もそれへのできる限りでの誠実な解答として「前川レポート」なるものを作成した。そして今更ながらアメリカの主張を「正論」として受け止めてしまった愚を嗤う。
アメリカの「正論」を前に、市場開放にとどまらず、金融ビッグバンとか、構造改革まですすめてきた。
グロ-バリゼ-ションに色々な相があったとしても、究極的には世界中でほんの一握りの人間が自由に富を収奪するための「地ならし」をしたにすぎないということである。そんなつもりはなくてもそうなのだ
グローバル・スタンダードを誰よりも推進したのは投資銀行などのウォ-ル街に巣食う人々であり、あらゆる証券を「定形化された商品」にするためには、取引条件を規格化するための世界標準の金融市場が必要だったのである。
彼らが最も嫌うのは「個性」であり、証券、商品それぞれの個性をなくすほど、束ねることが楽になる。大規模に相場をはれるし、いくつかの証券を束ねて新たな証券をつくれば、それでまた商売の幅を広げることができるからである。
こういう金融技術の背後には「べスト・アンド・ブライテスト」つまり最も優秀な頭脳が、東西冷戦の終息で、金融部門にむかったということがある。
以来、アメリカはまるで「金融立国」にむかっているような印象だが、皮肉なことにこの部門の破綻こそが今日のアメリカの衰退の兆しをひきおこしている
そしてモノ作り技術からこの金融技術へのシフトこそがアメリカ社会全般を変色させたといってよい。
デリバティヴなど金融工学の登場により、法にさえふれなければいくらでも金を生み出せるかのような印象を与えてきた。モノ作りが軽視されるのも、むべなるかなということです。

黒沢映画の誘拐犯と違って、ウォ-ル街の住人は法を犯すでなく合法的に儲けていると主張するかもしれない。でも会社を売るために設立するとか、なにかがおかしい。彼らが枕を高くして眠れないようならまだ救いがある。
彼らが犯している罪は、モ-ゼの十戒にある「貪り」の罪といえないか。第十戒「汝貪るなかれ」の「貪り」とは神のものを奪い取るという罪である
最近おおきな問題はサブプライム・ローンは、頭金不要、当初の支払いは少額として返済能力も顧みずに金を貸した。要するに貧民から金を巻き上げるシステムだが、GMは自動車のローンにおいても同じような金融技術によって高級車を貧民に買わせた
畢境モノ作りの地道さよりも金融技術の「貪り」に呑み込まれたのが、GMの破綻なのかもしれない。
ところで企業のDNAはなかなか消せないらしい。専門家によれば大型車をつくってきたGMが燃費を食わない小型車で再生をねらうというのは無理で、大型車で活路を開かない限りは再建はないと言っていた。
GMの歴史は1904年馬車製造会社を経営するW・デュラントが破産寸前の自動車メーカーのビュイックを買収したことに始まる。4年後、ゼネラス・モーターズを設立し、買収と合併による事業拡張に乗りだす。
自動車草創期フォードがモノ作りの技術者から身を起こしたのとは対照的に、デュラントは銀行の資金と株を駆使して多くのメーカーを傘下ぬ収めることに成功した。キャデラック・ポンティアック、シボレーなどGMのブランドは、企業買収による膨張の痕跡でもある。
「つまらない手違いは全部忘れろ。失敗を忘れて今やることをやり抜け。今日は幸運の日だ」こう言ったデュラントは後にGMを追い出され、大恐慌下の自らの事業失敗により事実上無一文の晩年を送った。
GMの創業者のDNAが、この会社の運命を暗示していたのかもしれない

大学にはいってサムエルソンの教科書「経済学」を最初に学んだ時にどうしても腑におちなかったことは、費用項目に「正常利潤」が入っていたことである。なんで利潤が費用なんだ?
経営陣は、通常期待される「正常利潤」を確保しなければオウナー(株主)に首のすげ替えがなされるので、経営陣にとっては「正常利潤」確保はある種の費用として意識されるものなのだ。そう簡単に経営陣の入れ替えは起こりえない日本の感覚からすればなんか違和感がある。
あるいは[会社の価値は株価の総額」でありそれを最大化することが経営の目的だというのが経済理論で、こうした経済理論は、欧米の企業観となじむにせよ、日本人の企業観とは異なる
日本の企業には伝統的に従業員とそれに依って生活する人々との家族意識があり、それを最低限保障した上での株式の配当という方が馴染んだ考え方である。
また日本人にとってモノ作りは利益以上の何かであり、「貪り」とはかけ離れた性格をもつ世界なのである。
日本の職人には伝統的に「その道ひと筋」という意識があり、物づくりを究めることが何か普遍世界に近づくような要素を帯びていたと思う。つまり利益は二の次なのだ。
ライブドア事件や村上ファンドに代表されるように、こうした伝統的な「モノ作り」意識が相当に浸食され、日本人の間にもそれへの軽視が蔓延しつつあるのではないかと危惧を抱く。

昨年、外資系会社に入った男性が渋谷の路上でバラバラ死体で見つかった。
その男性は米投資銀行のグループ会社・不動産投資信託会社「モルガン・スタンレー・プロパティーズ・ジャパン」の有能な社員であった。
この社員が携わっていた仕事こそ「不動産の証券化」ということであった
不動産(土地・建物)は、動かない有形の実物資産すなわち持ち運びができない「モノ」であるのに対し、証券(有価証券)は、財産的に価値のある権利を記載した証書、すなわち持ち運び可能な「カミ」である。
不動産の証券化とは、この「モノ」を「カミ」に質的に転換させることで、一個の不動産に対して、多数の証券を発行することができ多数の人がその利益を得られるという金融技術である。
結局、殺人の犯人は妻だとわかったが、人間の体を小分けして持ち運んだのもそんな金融技術を気味悪く連想させる。
殺人に至るほどのDVがあるのなら早く別れればよかったと思うが、暴力をふるう夫でもそれがもたらす経済的ステイタスからは離れられなかったのだろう。その意味で妻も夫を貪った。
この殺人事件は、色々な意味で現代をシンボライズしているのもしれない。