博多の五人連れ

「五足の靴が五個の人間を運んで東京をでた。五個の人間は皆ふわふわとして落ち着かぬ仲間だ。
彼らは面の皮も厚くない、大胆でもない。しかし彼らをして少し重味あり大量あるが如くに見せ しむるのは、その厚皮な、形の大きい五足の靴の御蔭だ」

以上は岩波文庫「五足の靴」に登場する五人の若き詩人が書いた紀行文の冒頭の文章である。著者は「五人づれ」となっている
明治40年7月末から8月にかけて与謝野寛、平野萬里、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎の五人は連れだって九州北西部を旅して、旅先から新聞に寄稿し、二十九回にわたって「五人づれ」の署名で掲載された。なお寄稿文は五人が順次担当したものである。
詩人が書いた文章だけに詩魂が横溢していて、ため息がでるような表現箇所に出会うことがしばしばあった。
唐津近松寺をでる鉄道馬車について次のような描写がある。

「ぼ-と一時に濛々たる烟をあげて車が動きだす。その前にぶるぶると馬のように震えたには一同舌を巻いて驚いた、客車に迎える薄い板の壁に穴があいている。化物の口である。三人の火夫が面白がって石油をたく、その香りが遠慮なく客車を見舞う。美しい虹の松原を珍しい汚い黒い動物が息ざし荒く腹の中に人間を数十人容れて走って行くのである」

「五足の靴」は明治時代とはいえ、我が生活圏の福岡市周辺の風景が随所に登場するために、その感興もひとしおである
例えば北九州の赤間関の風景が以下の簡潔な文章によって絵のように浮かび上がる。

「海に沿うた馬関の町は水瓜と氷水の世界だ。我らはその匂いを嗅ぎながら狭い路を波止場へ出た。倉庫の前には大勢の荷揚人足が働いている。稼いで彼(あ)の子に遣(や)らざあなるまい、と歌うでもなくうめくでもなく、こんな声が聞こえる。干魚の匂いが日ざかりの空気に蒸される」

また我が生活圏との関わりでいえば、まずは「五足の靴」が福岡で宿泊した旅館・川丈旅館である。川丈旅館跡はかつて東中洲那珂川べりにあり今その跡地に「五足の靴」記念碑が立っている
「中島の川丈という旅館に泊まった。旅館と、温泉宿と、寄席と、氷店と、水上花火を装置した納涼店を兼ねた家だ。 川に臨んだ二階の戸を明放したままで寝かせてくれた」

そして現在の東公園がある「千代の松原」については次のようなくだりがある。
「朝、汽車は千代の松原を走る。松緑にして砂白き古来の絶景である。この中に筥崎八幡香椎の宮がある。潮風の荒きに圧され、松は皆低く地を這う、砂は黄味を帯びた白色の石英質である。 投げられた松の影が虎斑を作る中を、めまぐるしく走っていく。向こうに日を受けた 日蓮の銅像の大頭がきらきらと輝き、博多湾を睨んでいる」

ところで「五足の靴」の中に、博多っ子の性格を物語る興味深い記述に出会った
「博多は古来生々主義の地だ、歴史や道徳宗教は博多の眼中に無い、彼らは異種族を侵掠することを喜んだ、八幡船はこの力盛んに錨を抜いた、倭寇の根拠地は博多であった。
秀吉はこれを奨励したが、家康に至ってはこれを制することが、度をこえた。殊に藩主黒田氏は小心にして(かつ)の如く隼の如き博多人の翼を矯めたることが甚だしい。
これに不平憤懣の気は迸って、博多人は一図にひねくれた快楽主義の人となった
町ごとに催すにわか狂言は多く外来人たる福岡藩士の失策を脚色した。一年一度のどんたくは町民互いに祝うた祝うたと呼びまわって飲み廻る。
各個いずれも酒と肴とを陳ねてこれを迎える。また放生会には、千代の松原に幕を張って宴飲し、良家の女子皆綺羅を着飾って乞食の真似をして遊ぶ」

博多っ子を「ひねくれた快楽主義の人」と断じたのは面白い。私はこの点に同意するが「ひねくれた」には追加説明が必要かと思う。
基本的に博多は商人の町であった。 しかし平清盛が太宰大弐として博多にいた時代から日宋貿易で大発展し、中国の先進文化の波に洗われた最前線の町だった。
博多駅に近い承天寺の境内には、うどんそば発祥の地、お饅頭発祥の地、博多織発祥の地、を示す石碑が建っており、いずれも中国文化が博多を入口にもたらされたことを示している
中国に留学してこうした文化をもたらした聖一国師・弁円こそは承天寺の開祖であり、博多で新型ウイルスが発生した際に、施餓鬼棚に乗っかって博多の町に聖水をまいたのだ。これこそが博多祇園山笠のルーツであり承天寺こそは「山笠発祥の地」である。
あの長谷川法世の漫画「博多っ子純情」で知られる櫛田神社が「山笠発祥の地」ではないのです。
そしてNHK大河ドラマの「北条時宗」の準主役・謝国明こそは、中国出身の博多商人の元締め(綱主)で承福寺の最大のスポンサーとなった人物である。博多に来たら、とりあえず承天寺にきんしゃい。
承天寺すぐそばの聖福寺は、栄西が最初にお茶を最初にもたらした地でもあり、東長寺は空海が最初に「本格的」に密教をもたらした地である
そして今日の博多は豊臣秀吉が九州遠征の折、戦国の争乱で焼け落ちた地を新たな「町割り」で再興し、現在の大博通りはそのセンターストリートであった。
旧き歴史をもつ誇り高き博多商人にとって、中津から黒田氏を新たに藩主として迎え入れることは、ある種の「屈折」が生じたとしても不思議ではない。「五足の靴」はこの屈折を「ひねくれ」といったわけだ。
特に近松門左衛門作の歌舞伎の定番「博多小女郎浪枕」の材として、今も語り継がれる伊藤小左衛門の話は、そうした「ひねくれ」を生む大事件となったのである
1667年博多の豪商、黒田藩に多大なる功績を残した御用商人伊藤小左衛門は、黒田藩の藩経営上の支えとして密貿易を行ってきたにもかかわらず藩から見放され、徳川幕府の密貿易取締りの見せしめとして、幼子を含めた一族郎党、使用人を含めた多くの人々が処罰され、その数は270人にも上った。
この時、共に処刑された幼児・小四郎と萬之助を不憫に思った博多の人たちが祀った神社が呉服町の万四郎神社である
古代より博多商人は、海の向こうに大いなるロマンを求めて駆け回っていたのが、幕府に睨まれるのを恐れた藩役人達の保身によって、その翼を矯(た)めなければならなくなったのである。
那珂川から東を福岡ではなく、依然として「博多」とよび慣わしたのは、そうした博多商人の矜持をうかがわせるものである。
「博多にわか」は、商人達がお面をして顔を隠し藩役人の失策などを軽い笑いにしたところから生まれた。
これこそ「ひねくれた快楽主義」をあらわすものかもしれない、と思う。
「博多にわか」で使われるお面の目が鋭くはなく垂れ目でトロンとしているところがなんともいえない。そしてこのお面こそは「博多ッ子」気質をもっともよく表しているように思う。
また藩としても、博多商人のその程度のカタルシスを認めざるをえなかったのであろう。

ところで先述の承天寺には、川上音二郎の墓がある。
川上は 1864年 博多中対馬小路の大きな藍問屋に生まれた。落語家桂文之助に入門し、明治20年代に自由民権運動をからませ、陣羽織を着てハチマキを締め、日の丸の軍扇をもって、はかまをはいた出で立ちで唄った「オッペケペー節」で一世を風靡した。
こうした歌は、主義主張を歌詞にして街頭での演説調の歌い方から「演歌」といわれた。
演歌は後年、政治色が薄くなり、悲恋・心中の人情歌をバイオリン・アコーディオンなどに合わせて歌う遊芸になり、「艶歌」とも書かれるようになった。
川上音二郎は中江兆民のアドバイスで1891年「書生芝居」を旗揚げし、演題「日清戦争」などで当たりをとり新派の基礎を築いた後、才女の誉れが高く、美貌で諸芸に優れ東京・日本橋の芸者・貞奴と結婚した。
川上一座はアメリカやフランスでも公演をして、特にパリでは「日本ブーム」を巻き起こしたといわれている。
今日の多くのミュージシャンには政治的メッセージを歌い込む「演歌」的要素はないようだが、川上音二郎こそは、「博多っ子」気質を受け継いだ代表的な人物で、福岡出身芸能人の先蹤のようにも思える

最後に「五足の靴」が「海の中道」の砂丘で遊んだ時の情景を紹介する。

「帽子が風に逐われてころころと砂の上を転がってゆく、海に落ちそうで落ちぬ、捕まりそうで捕まらぬ所が面白い。砂の上に大きな足跡がある、蒙古の足跡かとも思われる。風がある日は大分波が荒いそうだ。
もう少し先へゆくと幅が狭まって石に澎湃たる玄海の怒涛を控え、左に博多湾の静平な波を見るべしと言う。
ここでこうやって暫く遊び、遊び疲れて、熱く焼けた砂の上をとぼとぼと帰って行く」

砂丘の上で、「五足の靴」が幸せにたわむれている。