ゴ-ストライタ-のジレンマ

世の中には様々なジレンマがある。学問世界に限定しても、数学のゲ-ムの理論では「囚人のジレンマ」、経済学では「流動性のジレンマ」、そして心理学では「ヤマアラシのジレンマ」などを思いつく。
ところで世にゴースト・ライターという存在がある。自分の名前を隠して他人の名前で書ている人々である。
「タレント本」とかいわれるもののほとんどは、ゴースト・ライターによって書かれているといわれる。
著名な評論家でさえ時間的制約の為に、内容を打ち合わせの上でゴースト・ライターに依頼するのだという。
昔やっていた「今夜は最高」という番組で、一九わけの竹村健一氏がタモリに新刊本の内容を聞かれて、答えに窮した場面があったことを思い出す。
ゴースト・ライターといっても色々とレベルがあり、自ら文学賞をとれそうな書き手であっても、何らかの事情や立場の故に名を隠して文を書くということはありうる。
「日本人とユダヤ人」のイザヤ・ベンタソンが山本七平氏が真の著者であることがほぼ判明しているが、名を隠すといっても現代のような情報化社会にあっては「ペンネーム」はそれほど有効な手立てにはなりえない。
そこでいっそ他人に成り代って文を書くのであるが、それでは文筆家としての自分が世に全く知られないということはやっぱり寂しい、というジレンマがあるにちがいない
仮にこれを「ゴ-スト・ライタ-のジレンマ」とよぼう
例えばあるミュージシャンが推理小説を書いて大ヒットしたとする。実はその作品はゴースト・ライターが書いたものだが、ミュ-ジシャンにとって文筆の才は嘘名であったとしても、それがミュージシャンとしての仕事に付加価値をもたらす可能性はある。
一方、名前を隠したいゴースト・ライターは、そのミュージシャンの名前を借りることによって、自分が書くよりもはるかに多くの収入を得ることができるかもしれないのだ。
いずれにせよゴーストライターは正体を絶対に明かさないことが業界の不文律らしい。結局ゴースト・ライターは、名をすて実(収入)をとる仕事である
こんなことを思うのは、江戸時代の写楽の謎と、彼が抱えたに違いない「ゴ-スト・ライタ-のジレンマ」を思ったからだ。

江戸時代の浮世絵師・東州斎写楽とは何者なのか謎なのだが、この謎自体が写楽存在のヒントであるかもしれない
写楽の作品発表は1794年の5月から翌年の2月までおよそ10ヶ月間、作品は百四十点にものぼる。ただ写楽はその後忽然と姿をけす。
浮世絵(錦絵)の製作は、版元の依頼にがよってまず絵師が原付大の版下絵をつくる。これをそれぞれの絵師と息のあった彫師がうけて版木に糊ではりつけ、生乾きのところで紙をはがして墨線だけを残して、小刀、ノミで彫って墨線を彫り出す。
こうしてできた墨板は摺師に渡されて墨摺絵ができあがる。絵師は必要な色の枚数だけ一色ずつ彩色してまた彫師に渡す。彫師はこれをうけて色ごとの版をつくる。摺師はそれに合わせて一色ずつ摺りだす。紙をのせて馬連でこすって摺るのである。こうして大体、一つの板で200枚ぐらいを刷るというのである。
つまり浮世絵の制作は絵師・彫師・摺師の共同作業であるのだ。ということは写楽が活躍した時に多数の人々がその制作に有機的に関わりあったということなのだ。
実はこれだけの共同作業を束ねたのがビデオショッップ「TUTAYA」の社名の由来になっている版元・蔦谷重三郎という人物である。版元というのは絵師と彫師と刷師とを束ねる総合プロデューサーである。
蔦屋は寛政の改革で財産没収の憂き目にあっている前科モノなのだ。
写楽の生きた時代つまり松平定信の寛政の時代は、奢侈や贅沢への取り締まりも強く社会生活への取り締まりの厳しい時代であり、前科をもつ出版元から依頼されて異様ともいえる「大首絵」をだすことをうけた「写楽」名乗る人物は、かなり大胆不適か差し迫った事情があったのではないか。
蔦屋重三郎としては、財産を没収され乾坤一擲の起死回生策として生みだしたのが東洲斎写楽の「大首絵」であった。
蔦谷が見出した「写楽」自身もひょっとしたら借財に苦しんだ武士なんかで、この浮世絵制作に一世一代の大バクチを打ったったということかもしれない。
ともあれ、大きな顔に人間の様々な感情をはらませた「大首絵」は大人気となった。
役者のよじれた笑顔の裏には、媚や卑屈や傲慢など役者の内面をもをも波だたせ、モデルとなった役者の方ならば、何もそこまで描かなくてもといった気持ちが横切ったのではなかろうか、と思う。
少なくとも描かれた方であまりいい気持ちがしなかったことは推測できる。
当時、狂歌でしられるあの大田南畝が、写楽はあまりにリアルに描いていたため、絵師生命を短くしたといううようなことを書き残している。
それと関係するかは知らないが、写楽は作品を「大首絵」から役者の全身を描く「姿絵」に転換させ、結局「大首絵」は全体の5分の一にしかない28点にすぎない。
当時「姿絵」では第一人者の豊国がいた。洗練された豊国に比べて、写楽の姿絵はやぼったい感が残るものの、大首絵に見られるデフォルメがなおも息づいており、それが写楽「姿絵」の魅力となっている。
しかし「姿絵」には、顔におけるデフォルメは影をひそめ、顔はすっきりと美形に描かれているのである。
最近、NHKの番組「プロフェッショナル」という番組で、ハリウッド帰りの特殊メイクの第一人者の女性の紹介があった。
その女性プロフェッショナルが、美しい女優に老いた姿のメイクを加えようとしようとしたところ、その女優はあまりリアルさにそのメイクを拒絶したのだという。
そこで女性プロフェッショナルは単にリアルを追及するだけではなく、女優にも受け入れやすいメイクをつくることの重要さを教えられたのだという。
ひょっとしたら大首絵以後の写楽にも、その女性特殊メイクア-ティストに似たような感情の動きがあったのかもしれない。
2008年、ギリシアの島で写楽の肉筆絵が発見された。ギリシアの島と江戸とを結んだのはグレゴリオス・マノスというギリシアの外交官であった。マノスは、ウイーンの万国博覧会で日本の文物をみて魅せられた。
そして日本の浮世絵のいくつかを買い取って、その後ギリシアのアジア国立博物館の館長となるのが、博物館の彼の寄贈作品の中に写楽の肉筆絵あった。それが写楽の作品であることは、松本幸四郎の肉筆絵が細部にわたり浮世絵版画の松本幸四郎に限りなく近似しているからである。
ただ肉筆絵の内容つまり絵に登場する役者の時代から判断して、写楽が全く姿を隠してから4か月後の作品であることが判明した。
写楽は浮世絵で姿を隠しても愛好家のために絵を描いていた可能性がでてきた。私はこの事実に、自分を世から隠そうという気持ちと、自分の存在を知って欲しいという「ゴ-ストライタ-のジレンマ」を見る思いがした。
「美の巨人達」というテレビ番組で「写楽は何者か」という謎に迫っていたが、能役者だった下級武士ではないかという説がとなえられていた。写楽の絵にはどこか拙さががあり、絵のセンスがある素人ではないかという説であった。
また能役者は、役者達を細かく観察することができる立場にもあり、当番後の一年間程度の非番の期間に集中的に創作を行うことが可能であるいう説である。

ところで、南米のジャングルには「サラオ」という空間があって、そこに様々な動物が降りてきて土を食いに来る。土には毒消しの作用があるそうだ。テレビに見たサラオで様々な動物達が集まって土を食べる風景は不思議かつ異様なものだった。
環境破壊によって動物達は、従来の毒のない植物だけではなく毒性のものをもかなり食べざるをえなくなったというのが、サラオという空間の成立事情だという
写楽の絵に含まれる毒気は、むしろ我々の精神性に解毒作用をもたらしそうな気配もあるのだが、その最も強毒性の「大首絵」がわずか28点しか拝めないのは、残念という他はない。
その写楽の正体は、日本から遠いギリシア小島の小さな美術館で少しく解明されようとしている。