ヌ-と人間と原子力

アフリカのサバンナの話をしよう。
タンザニアのセレンゲティ国立公園では、ヌ-の大群(190万頭)の大移動が見られる。
3~4頭のファミリ-で固まり順序よく列になって縦隊で移動する。行程の途中に川が数本あって、その川渡りの途中で、相当数おぼれる。
川下にはおぼれたヌ-やゼブラの死体がごろごろあって、肉食動物やハゲタカなどが集まり、待ってましたとばかりにかぶりつく。
草原は一か所が乾季でなくなるころは、別の場所が豊かになる。草食動物が草を求めて移動し、再び始めの場所に戻って 来た頃には、また、その場所の草はすっかり成長している。
草食動物は、草を求めて毎年大移動をくり返し、その途中でおぼれ死んだり肉食動物に食べられたりするのだが、草食動物が減り続けるということがないのは、移動の途中で新たな命の誕生があるからである。
従って、生き延びる動物が多すぎては、草は限られている故エサは少なくなり、結局自らの首を絞めるということになる。
こういう野生動物と自然との関わりの中で、野生以外のものが入りこまない限り、すべてが生き延びるためにうまくバランスが保たれ、崩れることはない。
自然界には非情に見えることあっても、それが野生の中にセットさらた叡智なのである。
ヌ-の大群は距離にして1600㎞の移動を毎年死ぬまで繰り返すが、ヌ-は生きるためになぜそこまでしなければならないのか、という気持ちにもなる。
しかしヌ-へのフォーカスを広く自然界全体にむければ、ヌ-の大移動こそが自然界にとって必要なのだ、という答えをうることができる。
動物の群れが広い範囲で大土を踏み歩き、草を食べ排泄をし、数ある屍を野に晒すということが、大自然の保持にとって必要だからだ
現代の人間は、大古から繰り返されてきたサバンナや森の中で生きた動植物の死骸が地層に蓄積し化石となったもの、つまり化石燃料を燃やすことによって文明を維持しているのだから、そうした動物達の大移動を含む自然の営みの恩恵に依存しながら生活をしていることになる
ただ人間の欲望は他の動物に比べて突出しており、蓄積された化石燃料を燃やす速度が異常に大きい為に、「地球温暖化」という危機を引き起こしているわけだ。
人間界も自然界における生死のドラマと同様に、戦争や災害や飢饉や恐慌などの様々な出来事によって人が死に、それに直面した人々を打ちのめす。
これを自然界の生死のドラマと同列に見ることは憚られるが、客観的に見ると人口の調節が行われ、人類のの生存を長引かせているという見方もできなくはない。
サブプライムローン問題で世界経済は危機に陥ったが、それによって地球の温暖化の速度をある程度緩和していると考えれば、多少は救われる気持ちになる。
つまり、禍福はあざなえる縄のごとし、ということだ。

次に原子力の話をしよう。
人間が原子力を扱うことは環境をかえることとは少し違うように思う。
むしろそれは、自然環境の前提となっている基本条件を操作することを意味する。
それは、何よりもほんの微小な数グラムの物質(ウラン)が膨大なエネルギ-を発するということが何よりも如実に語っている。
では原子核を操作し原子力エネルギ-を引き出すのは、他の技術とどこが根本的に異なっているのだろうか。
今日まで核以外のすべての技術は、極限すれば原子と原子、分子の結びつきの変化、つまり原子のまわりの電子の変化によっておこる、またはそうした変化を起こすテクノロジーであった。
そうしてこうした技術の適用でいろいろな現象が起きるが、それは電子が反応するためであって、原子核そのものは少しも動かない。
日常生活では、原子を構成する原子核は常に安定していて、原子核の周りを回る電子がいろいろ結びついたりして変化がおこるからである。
この変化によって、日常生活に必要なエネルギ-は、工業的に、あるいは人体の中で、生まれたり消滅したりしている。
ところが核テクノロジーは原子核の安定性にあえて挑み、その安定性を崩すことによって膨大なエネルギ-を取り出す技術なのである

サバンナの話にに戻ろう。
動物達は大移動の末、草が再び蘇る頃になって元いた場所に戻ってくるが、その大移動には、ある奥深い秩序が隠されている。
それは動物達の移動がある秩序の基に順番に行われているということである。
最初に移動し始めるのはゼブラ、次にヌ-、最後にトムソンガゼル。他の草食動物も、ヌ-が移動するのを見て一斉に移動する。
肉食動物も獲物がいなくなっては困るから一緒についていく。
なぜこのような順序性があるかというと、動物が植物のどの部分を食べるかということと関係している。
ゼブラは上下にかみあう前歯をもっていて、よく成長した盛りの草を食べる。
ヌ-はゼブラが食べた後に出てくる草が好みだから、ゼブラの次にその場所に行って食べる。
舌の長い動物、歯の強い動物、体型が様々なものが「食分け」できるように、動物達は移動してく。
つまり動物の各々体に担った進化の歴史に応じた行動をしているわけで、本能的に自分の身体や能力と自然環境との関係を知りつくている。
動物は自分の身体や能力を知った上で行動し、自らの生存を永らえているのだが、果たして人間はどうだろうか。

最後に人間の話をしよう。
最近、JR西日本福知山線脱線事故の報告書に関わる件で、JR西日本前社長が、鉄道事故調査委員会の委員から公表前の最終報告書案を受け取り、会社側に不利になる記述を削除するよう働きかけていたことが発覚した。
この報道で思い出した事は、過去において何度か起きた原子力発電所事故の際に出された報告書のことである。
まずは、1995年に高速増殖炉「もんじゅ」でナトリウム漏れ火災事故がおこり、事故現場の様子を撮影したビデオの公開を隠していたことが発覚し、その矢面にたった人物が自殺した。
もうひとつは、1999年9月に起こった東海村のJOCウラン加工工場における臨界事故の報告書で、事故の第一義的な責任を亡くなった作業員の逸脱行為にむけたことである。
その報告書には、何が作業員をそうした逸脱行為に至らしめたかという「構造的な」部分に対する言及が一切なかったことである。
この事故において一番の被害者は、事故をおこしたとされ、亡くなってしまった作業員かも知れないのである。
人間は、いろいろな学習能力というものを持っているが、目をそらすなどして根本的なことを学ぼうとしない能力をもつ生き物でもある
技術の進歩は絶えず危険を伴う。飛行機を飛ばすことも、新幹線を運行させることも、車を利用することも、実際に事故がおきて人命が失われることは各個人にとって大不幸であろう。
しかしこうした事故も確率論的には、ワニよってヌーが川の中に引きずりこまれる「自然界の調節」のように見なすことができないわけではない。
しかし原子力が引き起こす災禍は、絶対に「自然界の調節」とは見なせないような規模と質をもっているように思う
原子核の分裂に伴なって大量の放射性物質が発せられる。
放射線が人体を通過すると、「電離」という作用を通じて人体の中の様々な化学結合を切ったり結び変えたりする。その結果、遺伝子の配列に影響を与えて、人体に様々なマイナスの影響が子々孫々にも引き継がれていく。

古代ギリシア社会では宇宙の根源を探る自然物理学のような議論が行われていた。
ソクラテスは人間存在や霊魂を探究し、青年達に「汝自らを知れ」と弁証法によって青年達に自らの無知を悟らしめた。
今日思う事は、サバンナの大地で土塵をまき揚げながら移動するヌーの大群が、図らずして自然界の「大叡智」を実現していることと、人間には原子力を永続的に管理・運用するだけの英知はなかろうということである。