月が割れるほど

1964年寺の住職で教誨師であった古川泰龍氏宅に弁護士を名乗る男が突然やってきた。男は、当時古川氏が行っていた「死刑囚助命運動」への協力を申し出た。
その男はそのまま古川宅に居候することになるが、古川氏の三女(当時11歳)は、この男が逃亡中の連続殺人犯・西口彰であることを見破り、家族が警察に通報し西口彰はついに逮捕された。
西口彰の犯罪については、映画「復讐するは我にあり」に詳細に描かれている。
実はこの時古川氏が関わり、「死刑囚助命運動」を行っていた事件が、1947年戦後の混乱期におきた福岡事件(福岡ヤミ商人殺人事件)であった。
古川氏が西口に疑念を持ち始めたきっかけは、「弁護士」が古川氏の運動に協力するといいながら福岡事件の基礎事実についてあまりにも知らなかったことであった。

敗戦直後の日本は混乱期で軍が放出した物資が闇取引され、それに纏わる陰惨な事件も数多く起きていた。
1947年5月20日、博多駅近く鹿児島本線沿いにあった工場試験場で二つの死体が発見された。死体には銃で撃たれ日本刀や匕首で刺されるなど乱闘を思わせる傷があった。
捜査当局が調べたところ軍服の闇取引を行っていた中国人衣類商と日本人ブローカーの死体であることがわかった。
この事件の犯人とされたのは、この闇取引に関わったとされた芸能社社長の西武雄氏と、この取引に立ち会った石井建治郎氏であった。
当時は旧軍関連の物資の闇取引が盛んで、そのために暴力団の抗争などもおき石井氏は旧日本軍の拳銃を持参したが、取引の最中、数人いた中国人との間で争いがおこり誤認により二人を射殺したという。
西氏は当日石井との間で拳銃の貸し借りを行ってはいたが、この現場に行くことはなかったという。
警察は「架空の軍服取引を持ちかけ、被害者2人をおびき寄せた強盗目的の計画的犯行」と断定し、いずれも元軍人だった西武雄氏を首謀者、石井健治郎氏を実行者として、強盗殺人容疑で計7人を逮捕した。
福岡地裁の判決文では、西氏と石井氏が共謀して架空の闇取引を行って現金を奪い取り、それがうまくいかなかった場合には相手を殺して金品を奪うという計画を立てたという内容のものであった。
西氏は軍服の取引は認めているが強盗殺人の計画は事実無根と主張し続けた。石井氏も、相手の動きを誤認した結果おきた乱闘によるもので、誰に頼まれたものでも共謀したものではないと主張し、強盗殺人を完全に否定した
西氏は強盗殺人は事実無根、石氏は事件はあくまでも偶発的なものではあったことを主張したが、警察は西氏が首謀者で石井氏が実行犯の強盗殺人と断定し、西氏と石井氏は1948年、福岡地裁で死刑判決を受け、1956年に最高裁で死刑が確定した。

この西氏および石井氏と福岡刑務所で会い、冤罪を確信したのが先述の古川泰龍氏であった
古川氏とその家族は、42年7か月という史上最長の拘禁期間の後に73歳で仮釈放された石井氏と生活を共にしている。
古川氏の家族の証言によると、その時石井氏は古川氏に部屋の鍵がないので恐ろしいと語ったという。
古川氏がこの事件の冤罪を確信したのは、殺害が三種類の凶器で行われ複数の人間の偶発的な乱闘を思わせるもので計画性がないこと、そして殺害された二人の内ポケットなどの現金が一切なくなってはいないこと、などであった。
また受刑者の証言などから、逮捕後の西氏が逆さずり水攻めの拷問を受け自白を強要されていた事実もわかった。
さらに時代背景として、終戦直後の混乱期で敗戦国日本は戦勝国「中国」に負い目をいだいており、中国に対しては腫れものにさわるような雰囲気さえあった。そこで傍証席から中国人達がが容疑者を死刑にしろ、といった声もかかり、裁判官が被害者側の心情にかなり傾いた判決となった可能性もあるという。

古川氏は原稿用紙2000枚にもおよぶ「真相究明書」とまとめ法務大臣に提出し、その印刷代を捻出するために実家である温泉旅館は廃業して、家族ともに全国を托鉢してまわった。古川氏は2000年に亡くなり家族がその遺志を受けついで「死刑囚の助命運動」を続けている。
古川氏の死刑囚助命運動の精神はシャバイツアー博士の関係者の目にとまり博士の精神に合致しているとして博士の遺髪が送られた。そして古川宅は現在「生命山シュバーツアー寺」となっている
後に再審で無罪となった免田事件の免田栄は、福岡刑務所で同囚となった二人の獄中の様子について、「西さんは、無実を訴えながら、どういうわけか再審請求はしなかった。彼はせっせと写経と仏画を描いていた。
一方、西さんと共犯関係にあるとされた石井さんは、まったく違い、点字訳の奉仕のかたわら、再審請求を繰り返し、その費用は妹さんが出していた。脇から見ている私は、その兄弟愛に感動し、うらやましく思うことがたびたびだった」と書いている。
1981年6月、法務省は石井氏に恩赦を与えて無期に減刑したが、西氏には死刑を執行した。事件から29年たってからのあまりにも唐突な執行であった。
西氏・辞世の歌は「叫びたし、寒満月の割れるほど」であったという。
西氏は享年60歳で、妻と三人の子供がいた。さらに共犯とされた石井氏は2008年11月、「西さんは無実だ」といい続けて、亡くなった。

最近、法学部で事件を学んだ学生などを中心に学習会が開かれ、古川家を中心に福岡事件の再審運動がおきている。古川家の人々は、父親泰龍氏が残した真相究明書は父親の生きた証だが、学生たちのそうした心こそが宝だと語っている。
いままで五度の再審請求が裁判所の門前払いをくらったが、現在もなお再審請求は続き、現在第6次再審請求中、2009年3月31日に福岡高裁で棄却決定が出されたために、最高裁判所に特別抗告している。
福岡事件では1948年2月福岡地裁での死刑判決が戦後初の死刑判決であり、日本裁判史上初めての死刑執行後の「再審」請求となった
関係者や真相を求める人々の間から再審への思いは次第に広がってきている。
一週間程前に、足利事件で菅谷利和さんが釈放された。最新ののDNA鑑定で菅谷氏の無罪がほぼ確定したことも、この福岡事件の再審への追い風にならないかと期待している。
何しろ福岡事件の事件現場が、私の現在の職場のはす向かいの公園(吉野公園)であることもあり、この事件の再審請求の行方を注目したいと思う