日記を読む人

日本文学の研究家として著名なドナルド・キーン氏の自伝をよんだ時、昔見たあるアメリカ映画を思いうかべた。
若い泥棒が富豪の邸にはいり物品を盗むが、盗品の中に当家の夫人の日記があり、その日記を読みすすむうちにすっかりその夫人の虜になるという話であった。
映画の原題は「Theft of Heart」つまり「心の泥棒」という映画だったと思う。
ドナルド・キーン氏はアメリカ海軍で戦場で日本人兵士の手記を翻訳する機会が多く、誰よりも日本人の真情に近づくことができた。「誰よりも」というのは、キーン氏はそれ以前より日本人の書いたものにふれて、それを理解しようと努力していたからである。
キーン氏が、日本人の心にふれた最初は、大学時代にたまたま古本屋で見つけた「Tale Of Genji」つまり「源氏物語」の英語版(アーサー・ウェイリー訳)であった。
キーン氏は戦争中、日本人の直筆の手記を読みとることが許された稀有な立場にあったのだが、よく考えると稀有な立場というよりも、困った立場にあったともいえる。
何しろキーン氏は、敵国人の手記を読んでその虜になってしまったからである。
氏の行動は、軍の命令とはいえ他人残したもの読みとっていたのだから、充分に「Theft of Heart」ともいえるかもしれない。
以前、絵画の盗難の調査していた警官が、本物の絵画と偽物の絵画を見比べ比較するうちにとても有名な美術評論家になるといった話があった。
ドナルド・キーン氏の人生はそういうパラドックスの面白さと、運命の数奇さというものを思わせられる
もちろん、「カミカゼ」の猛攻と「源氏物語」の哀調は、しばらくはキーン氏の心を切り裂いたに違いない。しかしそれらが同じ日本的な美学の上にたつことを理解するのは、キーン氏の慧眼と学識をもってすればそれほど時間はかからなかったと思う。

ところで日本は太平洋戦争でアメリカと戦争するにあたって、アメリカを想起させるものを徹底的に排除した。英語は「敵性語」として日本語に無理に翻訳されたが、その強引さがなかなか面白い
そのいくつかをあげると次のようなものである。
「ストライク」→「よし」「ストライク ツー」→「よしふたつ」「ストライク スリー」→「それまで」「ボール」→「だめ」「アウト」→「ひけ」。テニスのネットインセーフは、「あみこすり よし」とでもいうのでしょうか。
「ラグビー」→「闘球」「サッカー」→「蹴球」「ゴルフ」→「 芝球」はまだしも、「アメリカンフットボール」を「鎧球」というのには驚きました
車に乗って「バック、オーライ、オーライ……ストップ!」を「背背発車、発車……停車!」など叫んでいたら塀を壊してしまいそうです。
しかし「コスモス」を「秋桜」「ヒヤシンス」を「風信子」というのは趣があるが、 煙草 の「ゴールデンバット」を「金鵄」(きんし) としたのは、煙草にしては趣があり過ぎて少々吸いにくい。今日のセブンスターを「七つ星」とするぐらいならまだいいかもしれない。
笑えるのは「サイダー」を「噴出水」、「フライ」を「洋天」とし、「カレーライス」を「辛味入り汁掛け飯」等としたから、カツカレーは「豚天辛味入り汁掛け飯」とやたら長ったらしくなります。
動物園などで表記の変更が行われたそうで、「ライオン」を「獅子」とするのはよしとしても、「カンガルー」を「袋鼠」としたのでは、まるで「袋のねずみ」を連想し動物愛護協会におこられそうです。
楽器もサクソフォーンを「金属製曲がり尺八」、トロンボーンを「抜き差し曲がり金喇叭」とした。
「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」は「軽佻浮薄」だとして「ハ・ニ・ホ・ヘ・ト・イ・ロ・ハ」 と言い換えが行われたので、「ドレミの歌」は「ハ二ホの歌」で、「ハは歯茎のハ、二は荷物の二、ホは保険のホ」となり、お年寄り向けの歌に勝手にしてしまいました。
中国ではコンピュータを「電脳」としたが、日本の「敵性語」言い換えでは パーマを「電髪」とし、これでは「怒髪衝天」なる四文字熟語を連想し、カゲキすぎる感じがします。

最近、あるサッカーの監督が国際試合を前に言語や文化を含め相手国に関する本は何でも読むと言っていたのを思い出すが、戦時中「敵性語言い換え」の発想をみる限り、日本には戦時に最も大切な「敵を知る」という観点が欠落してたのかもしれない、と思う。
その点、欧米は長い異民族との戦いの伝統を生かし、「敵を知る」ために多大の労力を注ぎ、情報に対する意識が高く、そこが日本とは決定的に違っていた
アメリカ軍は機密保持のために兵士に手記のごときものを書かせなかったが、日本軍は日々の反省や自戒の意味で手記を書かせたのである。これがキーン氏の日本理解に役だったわけだ。
アメリカには明治時代以降日系人が多く存在したが、真珠湾攻撃以来、日系というだけでカリフォルニアの砂漠に建てられた収容所に入れられたぐらいだから、アメリカ政府は翻訳や通訳の仕事でも日系人を全く信用せず、ドナルド・キーン氏のようなアメリカ人語学将校が誕生したのである。
アメリカでは、占領地や植民地を研究するために文化人類学などの学問も発達し、有名なルース・ベネディクトの「菊と刀」もそうした文化人類学の成果である

ドナルド・キーン氏はノーベル賞が何人も出した高校で成績はほぼトップというほど優秀だったという。記憶力に優れ数学でも氏より実力がある生徒よりもテストの点数はよく、飛び級で16歳でコロンビア大学に入学し、ピュリッツァー奨学金もうけた。
キーン氏が大学に入学したのが1932年だからヨーロッパではヒットラーが台頭していた時代である。
当初、キーン氏はヨーロッパの古典文学を研究していたが、ニューヨークのタイムズ・スクウェアの古本屋の山積みされた本の中からたまたま見出したのが、「Tale Of Genji」であった。
キーン氏の言葉によると、ナチスの興隆という世界の暗雲と比べて「源氏物語」の世界には戦争がなく戦士もいなかった、ということだった
日本は軍事国家とばかり思い込んでいたキーン氏は、なによりも「光源氏」の人物像にひかれた。
「主人公の光源氏は多くの情事を重ねるが、それは何もドン・ファンのように自分が征服した女たちのリストに新たに名前を書き加えることに興味があるからではない。主人公は深い悲しというものを知っていて、それは彼が政権を握ることに失敗したからではなく、彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだった」と書いている。
「源氏物語」で開眼したキーン氏は日本文化への関心を深め、コロンビア大学で角田柳作教授の「日本思想史」を受講した。
角田教授は、アメリカで日本学の草分け的存在であった。群馬うまれで東京専門学校(早稲田大学)を卒業した。
角田先生は授業に没頭するあまり著作を残さなかったために多くを知ることはできないが、コロンビア大学で「センセイ」といえばこの人だった。
キーン氏の述懐によれば、日本学の受講者がキ-ン氏一人であったにもかかわらず、たくさんの書物を抱え込んで授業に臨んだ、という。
キーン氏がかつて辺境の学問であった日本文学を世界文明の中で普遍的なものとした点に功績があったとしたら、角田氏の功績も極めて大きいといえるだろう。
キーン氏にとって角田教授の下で日本を勉強することが将来どんな意味があるか不透明であったが、1941年氏はハイキング先で真珠湾攻撃のニュースを知り、これが氏の人生を大きく変える事になる
アメリカ海軍には日本語学校が設置され、そこで翻訳と通訳の候補生を養成している事を知り、そこへの入学を決意した。
海軍の日本語学校はカリフォルニアのバークレーにあり、そこで11カ月ほど戦時に役立つ日本語を実践的に学んだ。そして真珠湾に派遣され、ガダルカナル島で収集された日本語による報告書や明細書を翻訳した。
海軍語学将校ドナルド・キーン氏が乗る船は太平洋戦争アッツ島付近で神風特攻隊の攻撃をうけ九死に一生を得るが、そんな底知れない恐ろしさをもって迫ってくる狂信的な日本兵と、「源氏物語」の「平和主義」は結びつきにくいものであった。
しかしガダルカナルで集められた日本兵の心情を吐露した日記を読むうちに、そのギャップはある程度は埋められただろう。
集めた文書多くは極めて単調で退屈なものであったが、中には家族にあてた兵士の「堪えられないほど」感動的な手紙も交じっていた。
キーン氏はグアム島での任務の時に、原爆投下と日本の敗戦を知った。キーン氏は中国の青島に派遣されるがハワイへの帰還の途中、上官に頼みこんで日本の厚木に降りたち一週間ほど東京をジープで回ったという。キーン氏の「憧れの日本」は壊滅状態にあり、失望を禁じ得なかっものの、船から見た富士の美しさに涙が出そうになり、再来日を心に誓ったという

戦後、コロンビア大学の角田教授の下で再び日本語を学んだ。戦争から帰還して日本語を学んだ者の多くは中国学に転じた。中国の物まねの国としか思われていない国の言葉などを深く勉強しようとは思わなかったからだ。
しかし日本を理解しつつあったキーン氏は、日本を「物マネの国」とは思っていなかった。
その後ケンブリッジ大学で日本語の研究を続けた。ケンブリッジでは数人の学生と共に日本の古典文学を学んだが、そのせいで日常の会話でも日本の古文調で行われた。
たとえば「ジョンは真面目な男」というのを「ジョンはひたすらなをのこ」といった会話がアメリカ人の間でかわされていたというから、「世にも奇妙な出来事」がそこにくりひろげられていたのだ。
ケンブリッジでは哲学者ラッセルや小説家のフォークナーなどとも知り合ったが、最大の出会いは「源氏物語」の翻訳者であるアイサー・ウェイリーとの出会いであった。
その後キーン氏はアメリカに帰国し1953年、研究奨学金をもらってついに日本に留学生として再来日した。
その初日、朝の目覚めて列車が「関ヶ原」を通過した時に、日本史で学んだその地名に感激したという。
キーン氏は、作家・司場遼太郎氏や友人の永井道雄氏の推薦で1962年より10年間朝日新聞に客員編集委員というポストが与えられた。
そして初めて新聞に連載したのが、「百代の過客」であった。「百代の過客」9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた日記の研究だった。
キーン氏が戦時に語学将校として戦場で収集された手紙と手記と格闘して以来、手記(日記)こそが日本人が世界をどう見ているかを直接的に知ることができるヨスガであった。
ここにその年ノンフィクションの最高賞をとった「百代の過客」の原点があった。