前線と後方の話

「バリアフリ-」という言葉はもともと建築用語として生まれたが、建築以外にもこの考えかたは広くとりいれられ、ひとつの思想としてまたたくまに広まった。私はある高校で女子を前方に男子を後方に並べる整列風景をみてバリアフリ-というものを思い浮かべた。
女子の目線からすれば育ち盛りの男子の背中は「バリア」そのもので、講壇で話す校長先生の光る頭をどうしても見たい時など、それは「蹴りたい背中」となる。
その時、男子前方・女子後方の慣例的並び方を逆にするだけで相当よい環境が生まれることを知った。
ところで「バリアフリ-」のように特定分野のコンセプトが思想として広まった例は他にないかと探してみたら、軍事用語である「ロジスティクス」という言葉に思い至った。
「ロジスティクス」つまり「後方支援」とは、前線の後方において物資の補給・輸送などによって前線の部隊を支援する業務である。太平洋戦争の敗因は色々あるが、この「後方支援」の欠落が最大の原因だった。
外国にはわざわざ「ロジスティクス」という言葉があるが、日本では歴史的にみて燃料補給や輸送の重要度に対する認識が低いような気がする。それは戦国時代など比較的近隣の似通った環境の者同士のいくさであり、長くのびる「兵站」の確保ということが最重要課題となることはなかったからであろう。
太平洋戦争では相手方の情報や行動把握のなどソフト面でもアメリカに劣っていた。若きドナルド・キ-ンらの日本研究は実は「敵を知る」という軍の要請から始まった面もあり、ル-ス・ベネデクト「菊と刀」も元々はそうした観点から書かれたものであった。
アメリカには文化を含む総体の中で「いくさ」を考えるのは戦後の占領政策をも念頭においた面もあるが、異国との戦いでは敵を総体的に知るという事が身についている。
「後方支援」の欠落の問題では、日本軍が南に展開するにつれて補給が困難を極め輸送路を断絶たれ、南洋各島の部隊が孤立しその実働が困難を極めたということであった。
最近でも「周辺事態法」や「テロ特措法」において後方支援という言葉が注目をあびた。日本の安全に関わる「周辺」においてアメリカ軍を後方支援するという形で自衛隊が作戦に参加するが、具体的には自衛隊の洋上での燃料補給ということである。
ところで先の戦争で日本人が学んだ一番の教訓は、補給路を断たれることは敗北を意味し、それゆえに後方こそが戦闘のタ-ゲットになる危険性が高いということである。大体、戦時に前方も後方もあるのかという疑問はおくとしても、相手が攻撃するまでこちらは攻撃できないという条件の非現実的さと相俟って、「周辺事態法」や「テロ特措法」はかなり「憲法違反」の事態を引きこす可能性が高いといえる。

日本史の教科書を読むと中世日本で「下地中分」やら「半済令」などという言葉に出会う。
これらの話は、地頭やら守護の特権として登場する用語であるが、要するに兵隊(武士)が本陣から外に出た場合に食糧をどうするかという「兵糧米」の話なのだ。そして結局それは、現地調達なのだ。
戦乱が長期化し米を収奪される現地の農民達は、「兵は国から出てゆけ」ストライキつまり国一揆をおこしたりしたし、戦で死にそうになっている兵隊を「野武士狩り」によって素っ裸にして金品や武器を奪い取ったりしたのだ。(黒沢明「七人の侍」は貧しい農民が武器を隠し持っていたシ-ンが印象的でした。)
つまりは日本軍は伝統的に「現地調達の思想」はあっても兵站が長く延びる場合の「後方支援」の発想が欠落していた。サイパンやガダルカナルに現地調達できるものが何もなかったとしたら、そこに残された兵隊達は悲劇だけを刈り取ることになった。
もっとも現代において、海外に支店をおき発展してきた日本の企業は、貿易摩擦の回避のためには労働力や資源も現地調達が最重要課題となった。
この場合の現地調達は日本人がいままで蓄積してこなかった適応力を求められ、人権や文化理解を背景としたノウハウや知識が求めらるようになった。
日本企業が前線(海外)で学習したことが後方(本国)へフィ-ドバックされることによって、日本社会の人権意識やグロ-バル化が、こうした現地調達の面から進展したという面がある
ところで「後方支援」という言葉が拡大されて使われたひとつの事件を思い出す。それは田中真紀子外務大臣の時代の外務省機密費問題が発覚した時であった。外務省機密費をつかって愛人と愛馬(きっと愛人も面長でしょう)につぎ込んだノンキャリアの元要人外国訪問支援室長室長は、国際会議などで車の手配などを一手に引き受けていたという。経験やカン、臨機応変な対応を要する仕事は彼の独壇場で、そうした彼の仕事を国際会議の「後方支援」というような言い方をしていた。
これにならって後方支援を拡大適用すると、夫を毎朝仕事に送り出す主婦、子供を塾に送りとどける父親、受験戦線の子供に深夜ラ-メンを作ってあげる母親など思い浮かぶ。
しかし、最近の親が子に対する後方支援は過剰で、車で子供を学校に送り届ける場合には、学校の近くではなく校舎内の靴箱までであるから、親のヘイタンは学校中枢近くにまで延びてきている。

前線と後方を「実戦と作戦」と考えれば、一人の人生の明暗をどうしても思い起こす人がいる。元日本陸軍参謀・瀬島龍三氏である。
瀬島氏は日本参謀本部の作戦参謀からシベリア抑留、そして復帰後伊藤忠商事に勤めその後中曽根内閣の第二臨調の役員をつとめた人物である。作家山崎豊子は瀬島氏をモデルとして小説「不毛地帯」を書いた。
その瀬島氏は満州に攻め込んだソ連軍によって捕縛され、ソ連極東軍の軍法会議で25年の重労働の刑を課せられシベリア送りとなった。
瀬島氏は本来東京市谷の日本軍の参謀本部(後方)にいるべき人なのだが、関東軍を直接指揮するために満州(前線)に出向いていたために極寒の11年間のシベリア生活となったのである。
もともと関東軍の指揮をとっていたのは皇族の竹田宮恒徳であったが、皇族の軍人を戦死させたり虜囚の辱めをうけさせることはできず、だれかが身代わりとして関東軍に赴かなければならなかったのだ。
そこで、満州の事情に通じていた瀬島がその役を買って出た。この時瀬島氏は死地に赴く気持ちで後方から前線にでたのである。
竹田氏は帰国後皇族をはなれ一民間人となり好きなスキ-を極め、スキ-連盟会長そして国際オリンピック委員というアマチュアスポ-ツ界の頂点をしめた。
一方、瀬島氏が満州で関東軍参謀の地位をうけるや、そのおよそ2週間後にソ連軍が雪崩をうって満州にせめこみ瀬島氏は連行され飛行機でハバロフスクへおくられた。わずか2週間の勤めの責がその後の11年間のシベリア抑留生活になったわけである
しかし瀬島氏のシベリア行きが必ずしも不運であったとはいいきれない運命のアヤがある。瀬島氏は1956年日ソ国交回復で日本に帰国し、体力回復と戦後の空白を埋めるための時間を過ごすし、自衛隊からの申し出を断り、伊藤忠商事に勤め、日商岩井の海部俊樹や丸紅の伊藤宏ととも航空機の売り込みにシノギをけずり、二流繊維商社であった伊藤忠商事を三井物産・三菱商事につぐ大商社に育てた
ただ瀬島氏はシベリアという不毛地帯でかつての部下とともに生死の淵を生き抜いたのは事実としても、もしも瀬島氏が東京裁判でGHQによって裁かれたらどのような結果がでたであろう。
果たして、中曽根内閣第二臨調の下土光敏夫氏の参謀として行財政政改革を実質的に指揮するという舞台にあがることがあったであろうか。

1981年の湾岸戦争では技術が新しい戦争観を生みだすことを知った。
それは「戦いの電子化」ということであった。軍事的タ-ゲットのみをピンポイント攻撃し、兵隊同士の白兵戦を防ぎ見方の犠牲を最小限にするという戦争史に残る戦闘だった。
戦争がかつて「コ-ルド」(冷戦)と呼ばれたが、さしずめ「ク-ルウォ-」ということか。死者の数字がテレビの反視聴率または政権の反支持率のような役割を果たす。サッチャ-首相が退任時、フォ-クランド紛争で死者のカウントが増えることに身を切られる思いだったと回想していたのを思いだす。
今日の戦争は、送り出した兵隊の死者の数(味方の死者の数)が世論の重みとしてかえってくるので、政権維持にも直接響いてくる。具体的な軍事行動も世界世論の制約を大きく受けるようになった。
とすると後方で作戦の指揮をとる人間と、前戦で戦う兵士との関係も従来とは異なってくる。指揮官は人命軽視の命令を出すことは許されないし、人海戦術などはもってのほか、ということになる。
新しい戦争観のもとでは、かつての旅順陥落の英雄も相当低位に位置づけられることになろう。