世界の武士道体験

ケネディ大統領が就任演説後、日本人記者団に尊敬する日本人は?と聞かれて上杉鷹山と答えたら、日本人の記者がその名を知らなかったというエピソ-ドがある。
私が以前勤めた職場でALTのフィンランド人女性から上杉鷹山を知っていると聞いて驚いたことがある。
上杉家は戦国期は米どころ越後の大名であるが、関ケ原の戦いで西軍に加わり敗れ米沢という小藩へと転封となった。寒さと痩せ地で貧藩にすぎないと思いきや、第九代藩主・上杉鷹山の経営才覚で外国人から見て「桃源郷」のように映ったという記録が残っている。ちなみに上杉鷹山の母は「筑前秋月城主の娘である。
名君・上杉鷹山の藩経営は、ケネディの就任演説「国があなた方に何をしてくれるかよりも、あなた方が国の為に何ができるかを尋ねよ」という内容と重なり合う面がある。
しかしそれにしてもケネディは上杉鷹山の名前をどうして知ったのだろう。思いつくのは日本の武士道が新渡戸稲造によって1900年に英文で「Bushido」として出版され世界に紹介されていたが、「Bushido」に上杉鷹山の名前は登場しない。
実は「Bushido」出版より少し前1894年に英訳された内村鑑三の「代表的日本人」の中で上杉鷹山がとりあげられている。そういう事情から上杉鷹山の存在は海外で武士道とは直接的関係はないにせよ、結びつけられて受け止められたと推測できる。

武士道精神は戦前より新渡戸や内村によって書物の形で海外に伝わっていたが、日本での軍隊体験や日本軍との実戦を通じてそれに直接にふれた外国人によって、その精神が広められた部分が意外と多いのに気づく。
会津白虎隊が集団自決のを行った飯盛山にはイタリアから送られた石碑が立っているのを見て驚いたが、この石碑の存在には私の在住する福岡県人の一人が関わっている
福岡藩出身の下井春吉は、今の東京外国語大学に入りイタリア語を学んでいる。戦争中に日本とイタリアが同盟を結んで交流が深まる中、下井もイタリアの大学で日本語を教えることになった、白虎隊の話を友人の詩人に語ったところムッソリ-ニに伝わり、紆余曲折をへて日本へイタリアから顕彰の石碑が送られたというわけである。
国際法遵守という点で日露戦争までの日本の軍隊は世界でも最も模範的存在であった。幕末に結んだ不平等条約の改正が国家的課題であり、その為にも国際条約しっかりと守っていこうという機運が強かった。日露戦争の旅順の攻防で乃木将軍が、敵方の将ステッセル将軍を人道にかなった扱いをしたためロシア側にも大きな感動を与えた話は有名である。
ステッセルの夫人は、そのお返しに乃木将軍にピアノを贈ったという。五木寛之は、このステッセルのピアノを探して旅し、その経過を「ステッセルのピアノ」と題した本に書いている。
乃木将軍とステッセルの水師営の会見の前夜、山県有朋参謀総長から次のような電報があった。
「敵将ステッセルより開城の申し出をなしたるおもむき伏奏せしところ、陛下には、将官ステッセルが祖国のために尽くしたる勲功をよみたまい、武士の名誉を保持せしむることを望ませらる」
かくして乃木将軍とステッセルの帯刀を許したままの歴史的会見となったが、この旅順攻防で籠城していたロシア兵にユダヤ人が多かったことはあまり知られていない

日露戦争当時ロシア国内のユダヤ人は、日本と勇猛に戦いロシア国家への忠誠を証明しようというグル-プと、日本側に加担して自分達を差別してきたツァ-体制をこの際打倒しようというグル-プに分かれていた。
ロシアは日露戦争の敗戦により、革命勢力が勢いを増しロシア革命後の共産党中央委員会の9割はトロツキ-はじめとするユダヤ人であった。この人達の多くは後者のグル-プに属するユダヤ人達であった。
日露戦争当時ロシアは足元に火がついた状態で戦ったわけだが、日本の方もロシアと戦う金がなく高橋是清をヨ-ロッパに派遣し募金した。それに応じて金を出したのは実はユダヤ財閥なのだ。ユダヤ人を基軸とすると日露戦争の図式はかなり変わったものになる
アメリカがドイツ・イタリアを敵としてヨ-ロッパで戦った際に日系人がアメリカ兵としてイタリアで勇猛果敢な戦いをして多くの勲章を得た。それと同じように旅順に籠城したロシア兵の多くにユダヤ人でありながら立派なロシア兵であることを戦いの中で証明しようとした人達(前者のグル-プ)がその中に混じっていた。
そうした中にトロムピ-ダ-という男がいた。トロムピ-タ-は旅順の戦いで左手を失い旅順陥落によって捕虜として日本の松山に捕虜として連れてこられる。
日本は当時国際条約を守ろうと愚直なほどの努力をしており、松山でもロシア人捕虜は優遇され、ユダヤ教徒の場合には特別のユダヤ風料理までもが供されたのである
日本軍は、ユダヤ教徒が豚・エビ・かになどを食べることを禁じられていること、肉も屠殺直後に血を抜くことをよく知っていたのである。ユダヤ人は日本にいる方が差別されないことをこの時知るのである。
感動したトロムピ-タ-は、日露戦争終結後に帰国して勲章をもらい、それから間もなくパレスチナへと向かい、日本軍を手本としたユダヤ人部隊の創設を企てた
(ちなみにイスラエル建国後、キブツなど社会主義的経済が作られたのは、ベングリオン、ゴルダ・メイヤ-などソビエト出身のユダヤ人が多かったことによる)
実はユダヤ人旅団が史上始めて創設されるのは第一次世界大戦後であるが、その種を蒔いた者こそトロムピ-タ-なのである。
ちなみに松山の捕虜収容所は、しばらくして徳島坂東の捕虜収容所に統合され、第一次世界大戦で青島で捕虜となったドイツ兵が会津出身の松江豊寿所長によって人道的な扱いをうけ、ベ-ト-ベン作曲「第九」をはじめて演奏したことはよく知られるようになった

中国は日本を近代化のモデルとして有望な若者を日本に留学させている。1919年の5・4運動以前は、魯迅、汪兆銘、蒋介石、周恩来など多くの留学生を送り込み、神田の古本屋街に今なお中国語書籍の専門店が多いのはそういう事情からである。
特に蒋介石の場合は新潟新高田の野砲兵第一三連隊に配属され、日本軍の軍人精神を根っこから叩き込まれている
蒋介石は中国に帰国後、ソ連支援で設立された黄埔軍官学校という士官学校校長となるが、ここで育った若い将校達が蒋介石に絶対服従したことを考えると、蒋介石の権力掌握の方法としては理にかなっていた。
この蒋介石が日本軍と血みどろの戦いをすることになるから歴史は皮肉である
しかし蒋介石はもともと日本軍と戦うことににそれほど積極的ではなかった感がある。蒋介石は西安で張学良軍に捕縛され、周恩来や孫文夫人の宋慶齢に説得されてようやく腰をあげて日本軍と戦うことを決意した。
日本の敗戦後、日本軍を武装解除せずそのまま帰国の便宜を図り、戦後賠償をさえ要求しなかったことは、毛沢東率いる共産党軍との戦いに備え日本側の援助を要するという読みがあったのだろう。しかしかつての師たる日本に対しての恩義を重んじる気持も多少はあったかもしれない。
蒋介石は、共産党との戦いにやぶれ台湾に逃れた。台湾は戦争中の日本とのワダカマリがほとんどないアジアで唯一といっていい国である。
台湾で後藤新平らのインフラの充実が、台湾の人々に好意的に受け止められた面があるが、同じくインフラ充実を図った朝鮮韓国では全く逆にしか受け止められてはいない。(というよりその視点はタブ-でさえある)
日中戦争では虐殺などを含む凄惨な戦いであったにもかかわらず、日台間にはそうした本土の記憶が尾を引いていないのはどうしてなのだろう。
それは蒋介石の新潟での軍隊体験を通じた日本理解があったのではないかと思う。武士道に根ざした軍人精神がが少なくとも残忍や暴虐を宗旨としたものでないことが正しく伝わったものと推測する。
ただ残念ながら戦争の激化とともに本来の軍人精神も歪められ、現実の軍隊はそこから最も遠い性格のものになっていったことは否めない。

明治までの軍人達には「敗者に対するいたわり」があった。それが本来の武士道というものだろう。
武士道の辞書的説明では、儒教的な倫理「仁義」「忠孝」などを核として出来上がった尚武の精神といわれるが、何かそれだけでは説明しきれない日本人の伝統感情に根ざすものではなかろうか。
阿川弘之の名作「雲の墓標」は、学業半ばにして学徒出陣に駆り出され、特攻隊として散った学徒兵の姿が描かれている。大学で国文学を学び「万葉の心」を解する主人公が、海軍における鉄拳を交えた猛烈な訓練によって従容として死地へ赴く姿が切ない。
万葉集に含まれる歌は古代のあの厳しい身分社会にあって、上は天皇から下は農民、兵士、乞食に至るまで入っており、男女の区別がなく、また地域も東国、北陸、九州の各地を含んでいる。
内容は、王位をめぐる争いがあり、敗者の悲しみと死がある
武士道に含む「敗者へのいたわり」も、「万葉の心」を隠し味に奥深いものになっているのではなかろうか
特に最近の日本モンゴル相撲を見てその感を深くする。結局、「横綱の品格」もそこの処が問われているのではないのだろうか。