ビルマコネクション

日本の政界で「世襲」が話題となっているが、そもそも子の方が親の威光を霞めるほどの輝きを放つのならば、別に「世襲」など問題にする必要はないのだ。
ミャンマーのアウン・サン・スーチー女史などを見る限り、むしろ「あの親にしてこの子あり」と感心するくらいである。だがスーチー女史は父親の背を見て育ったわけはなく女史二歳の頃には、父親はこの世にはいなかった。またインディーラ・ガンジーのように政治家になるべく育てられたわけでもなく、女史四〇歳までは政治の世界とは無縁だった。
確実にいえることは、スーチー女史がもつ「オーラ」に人々が引き寄せられたということだ

戦時中アジアの国々は有力な指導者もおらず武器もなく列強支配に甘んじる他はなかったのだが、日露戦争における日本の勝利に曙光を見出していた。
スーチー女史の父アウン・サンもそうした一人で、学生の頃よりイギリスからの独立運動に勤しんだが、その独立運動に手を差し伸べたのが日本の南機関という特務機関であった。
南機関を率いた鈴木敬司大佐は、イギリスによる独立運動の弾圧強化の為クーリーに変装してアモイに逃れたアウン・サンらを脱出させ故郷・浜松で匿まって絆を深め、ビルマの独立を支援することを決意した。
そしてアウン・サンはじめ30人の若者達を海南島に集め地獄の特訓を施しビルマ国防軍の基盤をつくりあげた。一方で日本関与の影をけすために、中国製の小銃を手渡したりした。
また大東亜共栄圏が喧伝される以前、日本の財界にはアジア人同士の純粋な共感に基づくアジア独立を支援する空気があった。
小説家・遠藤周作の順子夫人の父にあたる岡田幸三郎もビルマの独立運動に関わりをもった実業家だった。ちなみに岡田氏の兄の息子が俳優の岡田英次である。
岡田幸三郎は、慶応卒業後に台東拓殖会社に就職し台湾に赴任し、製糖工業の実態調査のためにジャワ・インド・ビルマなどに出張を繰り返すうち、欧米の植民地支配から脱出しようとするアジア民衆の動きに共感をもつようになった。
日本軍上層部とは違い、「アジア人のアジア」という大義以外何の野心も栄達心もない義侠の人々が多くいたのだ。岡田氏もそうした一人で、南機関の人々を社員ということにして自由に行動できる便宜をはかったうえ、資金援助をしたりもした。
アウン・サンらも当初は日本の「アジア解放」の理想に期待を抱いたが、一方日本のビルマ支援の背景にはイギリスという共通の敵の存在、また中国を援助しようという欧米の「ビルマ・ルート」という物資輸送ルート(援蒋ルート)遮断の目的もあった。
そして1942年3月9日アウン・サンらが日本人を含むビルマ国防軍をひきいてラングーンを解放したのだが、今度は日本軍がイギリスに代わって軍政を敷いたのだ
日本軍政下の日本軍人の横柄さを物語るのはささいなことからビルマ人を殴打すること、およびあたりかまわぬ立ち小便だが、仏教徒の多いビルマ人の心証を相当悪くしたようだ。 また南機関にとって、真珠湾攻撃つまり太平洋戦争勃発により情勢が大きく変わっていたことは悲劇であった。
そしてビルマの独立を約束していた南機関を率いる鈴木敬司大佐と軍との対立を深める結果となり、ついには南機関は解散させられる。
南機関の歴史を語ることは、ビルマの親日から反日から抗日へと変遷する過程を語ることでもある。
アウン・サンにとって南機関は恩人であったが、1941年2月南機関を直属とした軍部にアウン・サンらは日本軍の横暴を見せられるにつけ親日から反日へと変わっていく。こうした推移により、鈴木大佐や岡田氏とアウン・サンとの友情もいたく傷つけられていった。
そして「北伐」を命じられラングーンを出発したアウン・サンら九千人あまりの兵士は、北方50マイルのペグーで「敵は本能寺」とばかりに反転する。
そして日本軍により軍事訓練をうけて育てられたアウン・サン将軍率いるビルマ国防軍は、夜間突然に日本軍に対して銃をむける
そして日本軍は、ビルマ国防軍の反乱により撤退を余儀なくされ、再びこの地をイギリスが占領することになる。戦後、アウン・サンは首相となるが、1947年7月アウン・サンら六人の閣僚は政敵によって暗殺される。
その時、アウン・サン・スーチー女史は2歳であった。
ところでビルマと深い関係をもった人物に松坂屋の十五代社長・伊藤祐民がいる
名古屋栄町の松坂屋(いとう呉服店)開店の日、伊藤氏は店を歩く日本人ではない僧の姿を見つけ貴賓室に呼んだ。
信仰心厚い伊藤氏とオッタマ僧正の二人の間に友情がめばえ、伊藤氏はビルマの青年がイギリス支配のもとで十分な教育を受けられないという実情を聞き、彼らを日本に招いて教育を受けさせるため世話をする約束をした。そして名古屋に一軒の家をかりて「ビルマ園」(揚輝荘)と名づけ住まわせた。また東京白金の伊藤氏の別邸・三光学舎は、東京の大学に通うビルマの青年達の寄宿舎のようになった
これらがビルマ人の信頼を集め1939年の日緬協会が設立の素地となる。

私がスーチー女史をTVで見て驚かされるのは見た目の「若さ」である。60歳を超えたのだが、どうみても40歳代前半にしか見えない。
スーチー女史は父親のアウン・サン将軍の日本での行跡を辿るために京都大学で学んだこともある。
かつてビルマ(現ミャンマー)は、一旦は社会主義をかかげたものの失敗し民衆の不満や怒りが鬱積している中、1988年に学生の抗議デモとして爆発した。
そんな中、イギリスで学者の妻として平凡な主婦として暮らしていたスーチーは、43歳の時たまたま母の看病で帰国していたビルマで突然、反政府運動のリーダーに担ぎ出される。オックスフォードを出た才媛とはいえ、政治の実際からいうと完全な素人である。しかし、その彼女がたちまちカリスマ性を発揮し、圧倒的な人気を博し、ミャンマー民主化運動のシンボルになっていく
しかしこれに脅威を感じた時の軍事政権から、とうとう自宅軟禁に処されてしまう。
電話線を切られ、家の周囲は装甲車で固められた。また湖から監視艇が浮かんで常に目を光らせている。
しかしミャンマーではスーチー女史ばかりではなく、二千人から三千人の政治犯は獄中にあり、獄中で亡くなった者も多い。スーチー軟禁のままむかえた1990年の総選挙で、彼女のNLD(国民民主連盟)は80%の票で圧勝した。それににもかかわらず軍政府は政権移譲をこばんだままである。
父親が率いた軍と対立するのは皮肉ではあるが、外部との接触を断たれて孤独な抵抗を続ける彼女を、いまなお世界が注目している。
圧政の中彼女を輝かせて見せるのは「民主化」を願うミャンマー民衆の支持もあろうが、民衆が今尚語る「お父上は本当に偉い方でした」という言葉に違いない。