時の圧搾

松本清張に「波の塔」という小説がある。この小説の題名は多分、船が転覆・遭難した人の証言を基づいてつけられたのではないかと推測する。
松本清張といえども実際の体験がなければ、こういうタイトルはつけられないはずだ。
その体験者はこう語ったはずだ。気づいた時には海に放り出されてしまっていて、見上げるような高さの波が自分を襲ってきた、それは本当に「波の塔」のように見えた、と
この小説において、大学出たての青年検事が直面した官庁と商事会社をめぐる汚職事件は、大学で学んだこととは全く違う世界であった。現実の世界では、甘っちょろい正義感などではとても太刀打ちできないほど、闇の力が次々と押し寄せてきては青年検事を呑み込もうとする。
渦中にあるものにとって、それらは波が搭となって襲いかかってくるかに見えたのだ。
松本清張氏自身は学歴に乏しく、逆にそのため机上で学ぶことよりも現実の世界の深さを幾多の小説で教えてくれる。
そこで、大学で学ぶことが現場ではそれほど役に立たないような厳しい状況判断を日常的に迫られている人々を思いうかべた。(ついでに「波の塔」に対抗するタイトルも考えたが「時の圧搾」ではイマイチですね)
例えば、証券ディーラーにとってのコンピュータ画面に表示される数字の変化とそれへの応答、救急医療の現場に生きる者にとっての患者への対応は、幾多のマニュアルでも通用しない世界であろう。
つまり時が圧搾機となって搾り出された人間の瞬間・瞬間の判断の集積なのだと思う。
もっとも人間には慣れる動物なので、ある程度の耐性も身に着けることができるようが、現場の人々でしかわからないプレッシャーがあるのだと思う。
「時は金なり」というよりむしろ、「時は命なり」という言葉がふさわしい世界だ。
こういう「時の圧搾」が生み出したシ-ンを歴史の中で探してみた。

1582年明智光秀が信長を討った本能寺の変の際に、秀吉は毛利方の備中・高松城を水攻めしていた。
信長の死の知らせを受けた秀吉は、その事実が知れ渡る前に明智光秀を一刻もはやく討つ必要があった。
信長の死が世間に知られれば、勝ち馬に乗らんとする人々が光秀に集結する可能性があったし、柴田勝家ら信長配下のライバルに先をこされるわけにはいかなかった。
したがって時間が経てば経つほど秀吉は不利に陥ることになる。
秀吉は高松城主・清水氏の切腹を条件に毛利方と和議を結び、信じられない快速をとばして明智光秀打倒にむかった。これが「中国大返し」と称される出来事である。
「中国大返し」では、備中高松から明智軍との決戦場となった山崎(天王山)まで、200キロ余りの距離を二万余の軍勢がわずか5日で踏破している
単純に計算して2万の兵隊が重い武具を身につけ、山あり谷ありの道筋を1日40キロを移動したことになる。
しかしながら、この神速の秘密は兵の甲冑武具は別便で送り、兵は褌ひとつで駈けに駈け、食糧や松明は沿道の村々が提供したといわれている。(まるで聖火ランナー、沿道の村は補給所ですね)
その後秀吉は明智光秀を天王山でやぶり、信長の実質的な後継者をきめる清州会議では絶えず主導権を握ることができたのである。
秀吉の生涯の中でも「中国大返し」は「時の圧搾」に打ち勝った出色の出来事であったといえる

江戸時代の末期、大政奉還→王政復古→小御所会議→戊辰戦争にいたる時の推移は目まぐるしく、「時の圧搾」との戦いにふさわいい出来事の経過であったように思う。
大政奉還つまり幕府より朝廷への政権返上のビジョンは坂本竜馬が構想したもので、土佐から長崎へ向かう船上で最初に語られた。(船中八策)
このビジョンが坂本と同船していた後藤象二郎より土佐藩主・山内豊信に伝えられ、山内は幕閣の一翼としての立場から将軍・徳川慶喜に提言したものである。
当時、長州・薩摩を中心とする倒幕の勢いが増しており幕府に危機が迫っていたが、幕府の方から朝廷に政権を返上することによって「倒幕の名目」を失わせるということが大きなネライだった。
徳川慶喜は、たとえ政権を朝廷に返上したとしても朝廷には政権担当能力はなく、依然として徳川氏が実権を握り続けることが可能であるというヨミがあった
つまり幕府は名より実をとったわけで、敵の動きを逆手にとった高等戦術であり、坂本竜馬の思考の柔軟さを物語る構想だったといえる。
また土佐藩にとって新ビジョンの提起者であることは、新政権で主導権を握れるということでもあった。
この大政奉還への動きが、「時の圧搾」の渦中のような出来事に見えるのは、大政奉還と同じ日に長州藩と薩摩藩へ「倒幕の密勅」が出されているからである。
つまり幕府が天皇に政権を返上するとした同じ日に、天皇より「幕府を倒せ」という命令が出ているからだ。
ただし、この時点で朝廷の内部では倒幕派が必ずしも主流ではなかったことを考えると、「倒幕の密勅」は偽物であった可能性が高い。
新政府で重きをなしたいという思いは、幕府と共存をはかろうとする土佐藩や倒幕派の長州、そしてしだいに倒幕派に傾きつつある薩摩藩とて同じ思いであった。
そして幕府を改良するとか、幕府を倒して新政権をつくるか、など未来構想をめぐる壮絶な主導権争いが起きていたことを物語っている。
そして「それは「時の圧搾」との戦いでもあった。
そして大政奉還後、徳川慶喜の読み通りに朝廷は政権担当能力がなく、徳川家が「列公会議」を主導して実権を握りつづけていた。
倒幕派にとっは、この状態が長引くことは何としてもさけなければならない事態であったし、また土佐の発言力がこれ以上増すことも同様に避けなければならない。
その為にはいち早く政権担当能力のある朝廷に仕立て直さなければならない
ということで、長州と薩摩は朝廷内部の倒幕派公家とはかってクーデターをおこし親幕派勢力を朝廷より追い出した。
その上で天皇より「王政復古」の大号令がなされ、朝廷を支える柱として議定・総裁・参与三職が設置された。
つまりは倒幕派の薩摩・長州が倒幕派公家と連携して徳川氏に政治の実権を奪われないだけの政権担当の能力のある朝廷をつくりあげたのである。
「時の圧搾」を感じさせる出来事としては、王政復古のほぼ一年前に孝明天皇が亡くなっていることである。孝明天皇の妹の和宮が徳川将軍の妻こともあり、天皇は親幕派であった。したがって孝明天皇が生きている限りは倒幕はあり得ないことになるが、倒幕派にとってあまりもタイミングよく孝明天皇が急死している。
これは倒幕派公家の岩倉具視らが謀ったことともいわれているが、こういうタイミングをみると新たな政権に向かっての「時の圧搾」が勢いを増しているように感じられる。
ところで、王政復古の大号令がなされた日に、徳川家をどう処分するかについて小御所で有力大名が集まって話し合いが行われた。
この会議は、一時土佐・山内氏らの徳川家温存派が主流を占めたかに思えたが、休憩時間を挟んで薩摩の西郷らが短刀を忍ばせて会議に臨んでいるなどのうわさが流れ、山内豊信は黙り始め急に減速し始めた。
最終的に薩摩・長州らの倒幕派が主導権を握り、徳川慶喜の辞官・納地が決定した。
当然それを受け入れられない徳川氏と倒幕派との間で内戦すなわち戊申戦争がおきていくのである。
1867年11月9日という「大政奉還」と「倒幕の密勅」の日、同年12月9日王政復古と小御所会議が開かれた日、それは「時の圧搾」の中で人々が激しく火花を散らせた日ではなかろうか

私が中学生だった頃、「日本で一番長い日」という映画があった。
1945年8月14日から15日にかけて、日本が敗戦を受け入れ、天皇の玉音放送を流すまでの長い一日を、様々な人間の命運を散りばめて描いた映画である。
何しろ、すなわち玉砕覚悟で最後まで米軍と戦いつづけるか、ポツダム宣言すなわち無条件降伏をそのまま受け取るかという決断がなされたたわけだから、できることならば避けたい、もっといえば明日は来てほしくないという気持の中で、確かに「日本で一番長く」感じられたかもしれない。
一方、幕末に薩摩・長州・土佐らの志士が日本の国家のビジョンを提起し合い、いちはやく主導権をめぐってせめぎ合った時間は、そこに関与した者にとって一日一日はむしろ短く感じられたでのではなかろうか。
大政奉還や王政復古の日などわずか一日という時間に極めて重大な決断がなされ、当事者にとってすれば異常に濃縮された時間だったにちがいない。
ひょっとしたら当事者の主観の中では「日本で一番短い日」ではなかったかと思うのである。

かつて国家のビジョンを命がけでぶつけあった密度の濃い時間が存在した時代があった。
「時の圧搾」を生みの苦しみの一時と捉えるならば、今日スキャンダルの暴き合いに熱中している政治家達の時間は、相当間延びしているようにしか思えませんが。