サインポ-ル

聖書はノアの話やロトの話などにみるように、人間が遭遇する禍を特定の人々が免れうるというのが一つのテ-マである。
あまりにも虫のいい話にも聞こえるせいか真正面から語られることは少ないが、それが聖書でいう「救い」そのものではないにせよ、「救い」の型と見ることは可能である。
そうした典型例がユダヤ最大の祭り「過越しの祭り」である
紀元前13世紀、飢饉のためにエジプトに400年にもの長き滞留をしたユダヤ民族は数が増えるうちにしだいにエジプト人から奴隷のような扱いをうけるようになったために、故郷カナンの地に戻ることを希望するようになる。
ユダヤ民族はエジプト王パロに「出エジプト」を願ったが、心を頑なにしたパロはなかなかそれを肯んぜず、神はナイル川が血に変ずるなど様々な奇跡を起こしてユダヤ民族をエジプトから去らせる。
最終的には紅海が二つに分かれる奇跡によってエジプト人は海にのみこまれ、ユダヤ人の「出エジプト」が成功するというものあった。
「出エジプト」の過程でおきた大スペクタル以上にユダヤ人の心に刻印された出来事が「過越し」の出来事なのである。ユダヤ人を去らせまいというパロに対して神はエジプトに疫病を蔓延させ、家畜から人間にいたる初子を撃つのであるが、 ユダヤ人は神の命令により住居の鴨居に羊の血を塗って、神はそれをサインとして疫病が通り過ぎた、つまり災いが「過ぎ越した」出来事である。
このエジプトの初子は死に、ユダヤ人の子達は守られたという出来事を記念して「過越しの祭り」が毎年4月に行われている。ちなみに「過越しの祭りは」、英語で”Passover”である。
聖書は構造的にできており、この鴨居に塗られた血が後の「キリストの血」であり、ナイルの水が赤く変じたことに暗に示されているとおり、水が血にかわる洗礼こそが人の罪を拭い去り究極的な災厄から人間を守る注ぎの「血」ということである
なお古代イスラエルの王ダビデは、幼き日のゴリアテとの戦いから数々の戦闘を生き抜き、戦場の過酷さをつぶさに体験したが、「千人は汝の左に倒れ、万人は汝の右に倒る。 されどその災いは汝に近づくことなからん」(詩篇91篇)とうたっている。

ところで、中世ヨーロッパで当時の外科医は、病気の治療手段として体内から血液の一部を抜き取る「瀉血(しゃけつ)」という治療をしばしば行っていた。瀉血とは医学が発達していない当時、静脈をカミソリで切り、血を流すとともに病を静めるという治療法である。
つまり、人間の血そのものは病にかかった以上は「悪しきもの」としてぬき去られたようである
中世ヨーロッパの絵画に、腕から血を採られている患者が長いポールを杖のように立てて握っているものがある。 採血は受け皿に溜るようになっているが、どうしても腕を伝わってポールのほうへ血が流れてしまう。
それを目立たなくするためにポールは赤く塗られ、そのポールは、当時貴重だった包帯を洗って干す棒としても使われた。 そのポールへ包帯を巻き付けて外に45度の角度で干したのが外科医の象徴つまり「サインポール」の始まりなのである。
実は現在、この「サインポール」を外科の病院で見ることはできないが、やがて床屋の前にある回転しているポールとして登場する。
これを英語圏ではバーバーズポール(Barber's pole)と呼ばれるが、バーバー(BARBER)は英語では「ひげ」を意味するラテン語(BARBA)から来ている。
実は中世ヨーロッパにおいて、髪を切るということは人間の体の一部を切るという意味では外科手術と共通であり、病院で行われていたのである。
サインポールの「赤は動脈、青は静脈、白は包帯」を表しているという説があるが、これは違うようです。
サインポールは元々中世のイギリスで、当時の理髪師が外科医も兼ねていたことから血液を表す赤と包帯を表す白の2色で生まれた。
理髪師と外科医を別けるため理髪店は赤白に青を加える動きもあったが定着せず、その後アメリカ合衆国で同国の国旗(星条旗)のカントンの色である青が加えられたものである。
というわけで現在、理容のサインポール(バ-バ-ポ-ル)には青が加えられて三色になっている。

ところで赤・青・白といえばフランスの国旗を思い浮かべる
1794年、フランス国民公会が、現在フランスの国旗となっている青・白・赤の三色旗(トリコロール)を国家の象徴と定めた。
フランス革命の時、市民軍はパリ市の色である赤と青の帽章をつけた。革命が全国に広がって市民軍は国民軍となり、その総司令官に任命されたラファイエットは、「市民と王家が協力して新しい国を作るべき」として、帽章に王家の色である白が加えられた。王政は1791年に廃止されたが、この三色を使った三色旗は国民軍のシンボルとなったのである。
このフランス国旗と「サインポール」はフランス革命とはなんの関連もないが、ただ日本の明治維新を見るかぎり、理髪店の普及は文明開化という国策の中で極めて重大な役割を果たしている
明治4年には政府の断髪令がでている。ところがいかに「維新」ではあっても、武士階級の「ちょんまげ」へのこだわりはかなり強く、政府も文明開化政策のもとで、その一掃に手を焼いた。
政府は各地に補助金にを出して理髪店を普及させ、ザンギリには賞与をだした。どれくらいのマゲをきったかによって 理髪店の名声があがったのである。
大阪の業者はチョンマゲ一掃の心願を立て、店にきたやつを世間話のどさくさまぎれに切ってしまうという手を用いた。 本人は怒る、親類縁者は泣きだすのさわぎで、ついに裁判沙汰になった例も結構多かったという。
マゲに代表される髪型を封建遺制のシンボルと考えると、「髪の除去手術」をもって日本人は西洋化を果たしていくことになる。
日本では床屋のサインポールは、ひねりを加えた形が、安土桃山時代にポルトガルから伝来した砂糖菓子有平糖とよく似ていたことから有平棒(あるへいぼう)(またはアルヘイ棒)ともよばれている。

「過越し祭り」の話が血の話からサインポールの話に展開してしまったが、エジプトに滞在したユダヤ人の鴨居の柱に塗られた羊の血こそが、「解放」(=救済)のサインポールになったのである
「出エジプト」を記念して制定された過越祭りは、その第1月(アビブ、又はニサンの月)の14日の夕刻、すなわち、15日の初めに犠牲物(小羊)を食べることに拠って始まる。14日夕方の日没からが時の始まりで、15日に夕にほふられた子羊を食べる。
イエスは過越しの祭りの十五日に十字架刑になっているが、出エジプト(紀元前13世紀)とイエスの十字架という10世紀以上を隔てたこういう符合にも、はかりしれない何かがある。