ホモアイノス

人間が本源性からかなり離れて生きていることは、世界の文化の淵源をさぐるとよくわかる。
例えば、楽奏や歌謡、舞踏、演劇などはも神へのささげものとして生まれたものである。そして相撲に代表されるように、スポーツでさえも、神への捧げものとして「奉納」されたのである。
こう考えると、人間の文化とは神を如何に讃えるかをめぐって発達してきたものであり、芸能やスポーツは結局、人に見せるものではなく神への最高の見せものとすべく技と力を磨いてきたのだ。
ところで人間を楽しませる意味の「エンターテインメント」の語源的な意味合いは「入れて維持する」で、注意をそらすことなく人々を楽しませるということである。一方、神への奉納は英語で「デディケーション」といい、その語源の意味は「御身の下に置くと宣言する」ことだそうだ。
大空に開いたギリシアの野外劇場や、相撲も神社の中の土俵の上で行われ、いずれも神の臨在の下に捧げられたものであろう。というわけで芸能やスポーツは神事と一体化したものだった。
今日、そうした見世物が神を喜ばせるためのものから人間を喜ばせるためのものへと変わったということである。
こうしたことをを「世俗化」というならば、「世俗化」とは人間が目に見えないものに心を寄せなくなることをも意味するのである
結局、人間はもともとの本然の姿から随分遠くにやってきたということだ。
そしてどんなに善良で非のうちどころのない人間でさえもが、回復(救済)さればならないのは、人間がそうした「距離」をすらもはや自覚することさえできなくなっているからである
人間を「考える葦」といったパスカルは次のようにいっている。
「私たち自身、人間とは何を意味するかを知らないのだから、何が人間を人間たらしめているのかを知らないのだから、ゆえに、それを失くしても気づかないだろう」と。
そして人間がまだしも本然の姿に近かった古代の人々は人間をどのように定義してきたのだろうか。古代の言語をよく調べると人間存在がどう捉えられていたかがわかる。
もとろん核心をつくことは困難だが、「何が人間を他の生物から分けているのか」という「人間の定義」について調べてみた。

アウストラロピテクスは「南の猿」という意味でジャワ原人つまり「ピテカントロプス・エレクトゥス」は「真っ直ぐ立った猿」の意味で、いずれもでまだサル(猿人)の段階である。
とはいっても、猿人と現生人類がどう違うのかはいまだに揉めているらしい。最新の遺伝子工学は人間のゲノムを完全解析してある種の「人間の定義」を完成させたが、人間とサルとの遺伝子は95パーセントは同じだそうだ。
ところで生物学者リンネによると人は「ホモ・サピエンス」であり、「Homo」とは「人」、「Sapiens」は「知恵のある」の意味で、合わせて「知恵のある人」という定義である。
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは人間を生物学的ではなくはじめて社会的に捉えて「政治的動物」とした。
人間は群れ(集団)をつくる点では動物と共通するが、生活の中で群れ全体としての意思を決定する過程で、「政治」というものが必ずともなう動物なのである。
オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは人間を「ホモ・ルーデンス(Homo Ludens)」(遊びの人、遊戯人)とした。ホイジンガは、遊びのおもしろさはどんな分析もどんな論理的解釈も受けつけないという前提にたっているという。
つまり、食べるため生きるため以外に「遊ぶ」という行為を行う生物は人間だけだで、それが人間の文化の源泉と位置づけた。
TVの動物番組でも動物はじゃれあって遊んでいるように見えるが、解説によればあれは「狩り」の技術を学ぶ過であるといっていた。ただ動物の赤ん坊が母親の乳首をラジオのつまみのようににひねっったりひっぱたりしていますが、あれはどう考えても遊んでいるようにしか見えないが、あれは何を学ぶ過程なのでしょうか。
さて哲学者ベルグソンは人間を「ホモ・ファーベル」(作る人)と定義したが、これは道具を扱うということと密接にむすびついた定義である。
ただ人間が道具を使うという定義に関しては、動物も道具を使うのが判ってきたので、この定義はかなりあやしくなってきている。

テレビで、サルが簡単な棒などの道具を使って餌をほじくり出したり、石で果物を割ったりするのをしばしば見ることができた。
経済学では「ホモ・エコノミクス」という定義がある。「ホモ・エコノミクス 」つまり「経済人」 とは、アダム・スミスが考え出した人間のモデルで、経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的な存在としてモデル化したものである。
「ホモ・エコノミクス」は近代経済学の理論を築く上での仮想的なモデルであるが、これと対照させて興味深いのが、カッシーラーによる「象徴をあやつる動物」という定義である。
カッシーラーの定義を経済行動にあてはめれば、人間の消費行動を「象徴を操る」ものとして「記号論」的に解釈することもできるのである。
つまり人間は消費に「効用」を求めるのではなく、それに「差異」や「象徴」を求めているということである
生活のなかで「衣食住」の基本がある程度満たされると、人間の消費の目的は「効用」ではなく、むしろ他者との「差異」であり、消費はそれによって自分の社会的地位をシンボライズする行為であると捉えることもできるのである。
日本人を指して「エコノミック・アニマル」といわれた時期があったが、ある通産省の役人が母親と鉄道で旅した時に、沿線の工場地帯の煙突から煙をあがっていないのを見て、母親から「お前はちゃんと仕事をやっているのか」といわれた、という話を聞いたことがある。
昔から「煙」は国の繁栄の象徴でもあった。作者は忘れたが中国の有名な漢詩の中にもそのようなものがあったと思う。聚落(しゅうらく)の上に立つ煙こそは、民の竈(かまど)の賑わい表徴である。
寺田寅彦は「人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物である。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する」書いている。
一方、軍事力も相当部分どれだけ多くの火薬やガソリンや石炭や重油の煙を作りうるかという点に関係している。
「煙立つ」ことが「地球温暖化の象徴」となってしまい、社会の繁栄を昇り立つ煙から判定する時代は遠のいていっている感じがする。
しかしながら「人間とは色々な煙を作る動物」であるという定義自体はやっぱり含蓄が深い。人間は火のないところに煙をたてたりする動物でもある。

その他に、人間の定義には色々あるが、比較的「マイナー」な定義でも人間の本質をついているものがある。
その他「ホモ・デメンス」(錯乱する者)や「ホモ・パティエンス」(病める人)」などといった定義までもある。ただ「ホモ・パティエンス」は、傷つき痛み苦しむことができる人間の在り方こそ共生を可能にするとプラス面で捉えられている。
フロイトを権威として挙げるまでもなく「性的人間」という定義もある。
サルトルは「実存は本質に先立つ」という哲学から、「人問は定義できない存在である」であり、人間は定義を決めていく存在であるとしている
つまり、人間だけが何のために生まれ何を目的として生きていくか生まれた段階では決められていない為に、自分自身で作っていく存在なのだといっている。
昔、湊川小中学校で名授業を行って有名になられた林竹二先生が「猿は生まれた時から猿だが、人間は生まれた時から人間といえるか」という発問から授業を始められたのをを思いだす。
 最後にドイツの心理学者フランクルは、「生に意味を求めること」が人間の特徴だといっている。
彼はユダヤ人を抹殺しようとしたナチスの手によってアウシュビッツに収容され九死に一生を得た。その体験を「夜と霧」という本にまとめ、どのような極限にあっても自分の人生の中に価値を見いだして生きていった人々のことを伝えている。
現代は遺伝子操作やクローニング技術、そして人工知能、人工生物の登場によって、人間の定義について新たなコンセンサスをつくらねばならない時代でもある。
人間の境界をどこにおくかによって、胎児、終末期の患者、昏睡状態の人、重度の精神障害のある人、老齢で認知症の人、その他死に近い人々などの扱いが左右される。
「人間の境界とは何か」、つまりは「人間の定義」が問われている時代ということである。

先述のように人間の遺伝子の95パーセントがチンパンジーと同じであるとすると、生物学的根拠において人間を他の動物から区別する明確な境界は見あたらないことになる。
そうした知見に基づき、人間がは単純に猿から進化したものであると捉えられがちであるが、聖書は人間を構成する生物学的・物質的条件はサルとほとんど変わらないにせよ、決定的に異なることを教えている。
それは人間には「神の霊」が吹きこまれたという点、この一点ゆえに人間とサルは決定的に異なるということである
人間が生物種としてサルから進化したとしても人間とサルには決定的に「隔絶」があるということである。

さて「人間の定義」を歴史的に概観するうちにある定義を思いついた。聖書の中に「主をほめよ、神をたたえよ」という言葉がいたるところにでてくるが、これは意外にも人間の核心をついているのではなかろうか。
人間は本来、芸能やスポーツそして様々な神事をもって「神をたたえる」存在なのだ。
それが本然の姿であり、人間を「ホモ・アイノス」(アイノス=ギリシア語で「讃美」の意味)と定義しよう
しかしながら、「神をたたえる人」という定義ほど、現代人にとって疎遠な定義はないのではなかろうか。
音楽、劇、詩などの多くが神への「捧げもの」として発達したということ、つまり人間の才、人間の唇、人間の身体の振る舞いなどが神への「捧げもの」としてあったとするならば、現代人はそこからなんと離れた存在なのだろう。
今日、人間は人を喜ばせ感動させるためにせよ、または自らの才能を誇るためにせよ、要するに「人の為に」そうした技能を磨いているのだから。
ということは人間は「ホモ・アイノス」からは相当遠いところにいる状態にあるのだ
さて、古代イスラエルの王・ダビデが、ある理由で神より命が奪われんとした時に、ダビデは神にもし私を殺してしまえば、いかなる唇があなたを崇め、いかなる竪琴があなたを讃えるでしょうか、と訴えている。
この言葉に神はダビデに下そうとした禍を思いとどまった。
聖書は、過ち多きこのダビデを最も神の愛でし人物であったことを伝えている。
ダビデこそが「ホモ・アイノス」の典型であった。