長崎の歌探し

作詞家のなかにし礼氏は兄の死によって兄との修羅のごとき確執を終える。
なかにし氏と十四歳年上の兄との関係はテレビドラマ化され、幼き日の満州からの引き揚げを描いたドラマ「赤い月」とともに、氏の転変きわまりない半生を描いている。
父を亡くして日本に帰還し、なかにし氏の家族はしばらく小樽で暮らした。兄は生活の為に一発あてようと提案し、家族で鰊漁をした体験が、なかにし氏の代表曲「石狩挽歌」の背景になっている。
鰊漁には運よく成功したものの嵐の中での輸送に失敗し、その利益は文字通り水の泡と化した。「石狩挽歌」に怨念のようなものがこもっているのは、そういう下地があったからである
なかにし氏は立教大学でフランス語を学んで、アルバイト先の喫茶店でボーイとして働いていた時にシャンソンの訳詞をしたのが作詞人生のきっかけとなった。
なかにし氏の訳詞は好評をえて、美輪明宏、戸川昌子などが歌っていた日本初のシャンソン喫茶の銀巴里などの有名店から依頼がきて、芸能界にもその名が知られるようになったという。なかにし氏に日本の歌謡曲の作詞を勧めたのが石原裕次郎だった。
なかにし礼氏は作詞した曲のうち3曲がレコード大賞受賞曲となる売れっ子作詞家となったが、その収入 を父代わりであるべき兄が湯水のように使ってしまい、またそのすべては兄の借金返済に充てられたといって過言ではない。
また、なかにし氏には兄を受取人として生命保険がかけられており、それを知った時にはさすがに悪寒が走ったという。
その兄が死んだ時、弟なかにし礼が兄が心の中でさけんだ言葉は次のようなものだった。
「兄さん色々とありがとう。兄さんをやってくれてありがとう 親代わりになってくれてありがとう たくさん苛めてくれてありがとう そして死んでくれて本当にありがとう」
なかにし氏によると、兄の横暴さとか無謀さ、破滅ぶりは昭和という時代の鬼っ子であり、昭和という時代の象徴だった。兄の死はなかにし氏のとっての昭和の終焉を意味したそうだ。
そして兄はなかにし氏の影、というよりもなかにし氏の方こそが「兄の影」だったかもしれないという意味のことを書いている。なぜなら兄の存在こそが創作の原動力だったのだ。
そして小樽生まれで氏を作詞家の世界に導いた昭和の大スタ-石原裕次郎も亡くなった。
兄という骨肉の呪縛から解き放たれたなかにし氏は、歌謡曲の作詞の意欲が急速に衰えたという。

なかにし礼氏は作詞家として成功後、しだいにオペラ、歌舞伎、演劇などのシナリオづくりの創作のフィールドをシフトしていったが、古代吉備王国を描いた和製オペラ「ワカヒメ」を創作した時に、作品に充分に岡山の地域や風土を書き込む事が出来たのか不安を抱くようになった。
なかにし氏は、全国の民謡を聞き続けるなかで各地に失われつつある歌に興味をもつようになり、その過程で氏は「長崎ぶらぶら節」に一段優れたものがあることを感じたという
「長崎ぶらぶら節」を歌っているのは、長崎丸山の芸者愛八という女性であった。氏は丸山の花月という楼閣で働いていたを取材し、愛八が本名・松尾サダといい、長崎の寒魚村・網場(あば)の出身であることを知った。
網場にも芸者がおり「網場芸者」というものがあったが、彼女達のそれは芸やなどの文化的なものではなく、貧しさゆえのものであったという。松尾サダは十歳の時に、長崎市内の丸山に芸者となるべく売られていった。
花月で愛八と名がつけられ芸者として働いたが、自他ともに認める非ビジュアル系であったためか、生き残るためにあらゆる芸を磨き18歳の時旦那もついた。そして丸山五人組のひとりともてはやされ名妓とよばれるまでになった。五人組の中で、他の芸妓は、年がたつと入れ替わったが、愛八は常に五人組の一人に名を連ねていたという。

ところでこの花月に万屋という黒田藩御用達の老舗の十二代目の御曹子で、その財産をつかって長崎を研究し将来「長崎学」の大家とも称される古賀十二郎という人物がしばしばおとづれていた。
古賀は芸者の総揚げをするなどをして金をつかい、学者なのか遊び人なのかよくわからない人物であったが、なぜか器量よしでもない愛八に目をつけた。
古賀は中央に対抗できる長崎学の確立の為に、長崎に残された古い歌を探すパートナーにこの愛八を選んだのだった
愛八はそんな立派な先生がなぜ自分に白羽の矢があてたのかと問うと、古賀は「上手く歌おう、いい人に思われよう、喝采を博そう、そういう邪念が歌から品を奪う。おうちの歌は位が高かった。欲も得もすぱっと切り捨てたような潔さがあった。生きながらすでに死んでいるような軽やかさだ。それでいて投げやりででなく、冷たくなく、血の通った温かさと真面目さ、それに洒落っ気があった。品とはそういうもんたい。
おうちの歌を聞いた瞬間、この女なら、いやこの人なら、長崎の歌探しという、なんの得にもなりそうもなか仕事ば手伝うてくれるのではなかろうかと直感したとたい」と言った
愛八も古賀の言葉を聞き、自分を理解してくれる人にようやくめぐりあえたと、感劇の涙を流したに違いない。
愛八は古賀に恋心を抱きつつ、古賀の「歌探し」のために旦那との縁をきり、古賀に伴われて3年もの間旅を続けた。
江戸時代からあるものの失われかけている歌を人から人へと訪ね歩く旅であった。愛八は手帳の記号をみればたちどころに歌うことができた。古賀は数多くの歌を愛八の歌いに助けながら整理記録していったのである。
古賀が歌探しの旅の3年目に出会ったのが、長崎ぶらぶら節」であり、そのなんともいえぬ甘いのびやかな節回しに引き込まれた。
ただ古賀・愛八によって発見された「長崎ぶらぶら節」が、二人によってノートに記録されただけならば、それがなかにし氏の目または耳にふれることはなかったと思われるが、ここにもう一人西条八十八という介在者が存在する
西条八十八は大正時代に当代随一の作詞家としてきこえ、日本の民謡を訪ねて西日本全域にわたって旅して歩いているのだという。埋もれたままの民謡を聞き直し、新聞に「民謡の旅」という連載をつづけていた。その旅は古賀・愛八の旅とは比べるべくもなく恵まれた旅だった。
西条が長崎の花月で食事をした時に、民謡を聞きたいと注文した時に愛八が登場したのだという。西条は「長崎ぶらぶら節」を聞いた時に、それをレコード化することを勧めた。
レコード会社のディレクターが商業的に採算が合うのか心配すると、西条は「君たちはいい歌を世に残すという文化的使命があるんじゃないのか」とたしなめたという。
レコード会社は「長崎ぶらぶら節」を有名歌手でレコード化しようと提案したら、西条は愛八さんが歌うからこそ価値があると反対した。
その結果「長崎ぶらぶら節」は愛八の歌でレコード化され、なかにし礼氏の耳に届くことになるのである。
江戸時代に名もなき人がつくった「長崎ぶらぶら節」は、愛八→古賀十二郎→西条八十八→なかにし礼と見出される運命を辿ることになる。

なかにし礼氏は直木賞受賞作「長崎ぶらぶら節」で古賀の口を借りて、歌について次のように語っている。
「歌は英語でエアー、フランス語でエール、イタリア語でアリア、ドイツ語でアーリア、ポルトガル語でアリア。つまり空気のことたい。歌は目に見えない精霊のごたるもんたい。
大気をさまようて長崎ぶらぶら節が今、うったらの胸の中に飛び込んできた。これをこんどうったちが吐き出せば、また誰かの胸の中に入り込む。その誰かが吐き出せば、また誰かが吐き出せば、また誰かの胸に忍び込む。そうやって歌は永遠に空中に漂い続ける。これが歌の不思議でなくてなんであろう
またなかにし氏は、忘れ去られた歌を探す意義について次のように語っている。
歌ば眠らせたまま死なせてはいかん。歌には多くの人の夢と祈りがこめられている。人々の歴史がきざまれているのだ
「長崎ぶらぶら節」という小説は古い歌探しの物語であるが、そのまま長崎丸山芸者・愛八という芸妓の発見の物語ともなっている。
古賀十二郎は愛八に何の為に生きるかという目的を与えてくれた存在でもあった。
古賀と愛八の関係は、歌探しの後、特に進展することもなかったが、小説の中で古賀は愛八に「おいとおうちのめぐり逢いは恋というにはあまりに真面目くさくて色気のなかもんじゃばってんが、一種の運命の出会いには違いなかたいね」と語っている。
1933年愛八の死(享年60歳)に際して、古賀十二郎はさめざめと泣いたという。