鉄川与助



今村にいつから信者達がいたのかはわからないが、1595年に、パードレが、スペインのイエズス会に出された書簡によると、当時、今村の近くには、7000人以上の信者がいた。
その後、キリスト教が禁止されて、300年以上信仰は密かに続いていた。
長崎県下のキリスト教の信者達はいろいろな場所にいたので、お互いに連絡もできたが、今村は完全に孤立した中で信仰を守ってきた。
今村の信者達は、他の地区にキリスト教が伝わっているとは思ってもいなかったのだ。
長崎で、信者が発見されたのが、1865年、今村はその2年後の1867年であった。
今村に神父がきたのが、明治12年(1879年)で鉄川与助が生まれた年である。
鉄川与助は、今村教会を建設した人物で、長崎を中心とした教会堂建築に多大な功績を残した人物である。
鉄川与助は長崎県南松浦郡にて、建設業を家業とする与四郎の長男として生まれた。
鉄川家の家業は室町時代からの刀鍛冶だったといわれてる。
鉄川家がいつ頃から建設業に職業をかえたのかは正確にはわからないが、鉄川元吉なる人物が青方得雄寺を建立した事実が同寺の棟札に記録されている。
明治39年に鉄川与助が家業を継ぎ、建設請負業・鉄川組を創業したとされている。
与助は家業をひきついで以来、主にカトリック教会の建設にあたってきた。
その工事数はカトリック教会に限っても50を越え、その施工範囲は長崎県を主として佐賀県、福岡県、熊本県にも及び、その地方の観光資源となっている。
原爆によって破壊された浦上天主堂も鉄川組によって最終的に完成された。

鉄川与助のたゆまぬ努力が教会建築の水準を完成の域にまでひきげたことはいうまでもないことであるが、未知の西洋建築技術の導入が主として宣教師の教示にもとずいたものであることを見過ごすことはできない。
特に旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助に大きな影響を与えたと考えられる。
浦上教会の完成後、鉄川与助は今村教会の設計と建設をはじめ、最終的に双頭の教会を完成させたのである。
双頭の教会は日本では数が少なく、今村教会の特徴はレンガの幅がひとつひとつ異なる点である。
さらにレンガで薔薇窓を作った点も大きな特徴となっている。
開口部を煉瓦で組む時には、煉瓦でお互いの重さを支えあっているので、建設者は息つくまもなく働いた。
今村教会の双頭部を除いても、総面積は180坪で地上からの高さ22.5メートルである。
鉄川与助はその後幾つかの教会建設にたずさわり、昭和51年6月5日97歳でなくなった。