今村カトリック教会


広漠たる筑後平野に苦難と弾圧に耐えてキリスト教信仰を守りつづけてきた部落がある。
大刀洗町今村である。
今村の象徴が、歴史の風雪に耐え抜いたカトリック教会である。
筑後地方はもともとキリスト教信仰がさかんな土地ではあった。
1549年ザビエルがキリスト教を伝えて以来、九州の諸大名がキリスト教を保護した。
久留米藩主・毛利秀包夫妻も熱烈なる信者で慶長5年(1600年)には、イルマン(布教師)が久留米を 訪れ700人に洗礼をほどこした。
毛利氏は筑後をキリシタンの天国にせんと教徒を保護奨励したので 筑後の信徒は7000人に達したといわれている。
しかし毛利秀包は、関ケ原の戦いに敗れ、筑後のキリシタンは保護者を失い衰微したが、博多に残留した宣教師達の指導により、キリシタンは信仰を守りつづけた。
関ヶ原の戦い以後、筑後32万石を賜った田中吉政がキリシタンを保護するものの, 1587年の豊臣秀吉の博多での禁教令から、この地にも弾圧の嵐が吹き荒れることになる。
1614年発布の徳川家康による全国的なキリシタン禁止令に基づく弾圧の嵐は、特に1638年の島原の乱が終ったころからこの地方にも吹き荒れた。


今村カトリック教会

今村カトリック教会
礼拝堂

今村カトリック教会

ここ今村の信徒達がどのようにしてこの地に根づいたのか定かではないが、島原の乱(1637年) で弾圧をうけた信徒達がこの村に逃れてきた事がその始めであったと伝えられている。
弾圧の中、多くの信徒が隠れて信仰を守った。
1867年2月26日、浦上の四名の信徒により今村の潜伏信徒が発見され、浦上の信徒とひそかに交流を保ちながら信仰を守り通した。
キリスト教が解禁されたのは1873年(明治6)年である。
1879年(明治12)フランス人宣教師ジャン・マリ−・コ−ル師が始めて今村の信徒の司教に着任し、青木才八家の土蔵を教会代りに使用した。
後任のソ−レ師により1881(明治14)年に信徒達が敬愛した殉教者ジョアン又右衛門の墓があったこの地に木造教会が建立された。
ロマネスク様式赤レンガ造りの現教会は1908(明治41)年に本田保神父により計画され、諸外国、特にドイツからの寄付、信徒達の労働奉仕のうえ1913(大正2)年に完成した。
設計・施工は当時長崎で多くの教会建築を手掛けた鉄川与助である。
国内に残るレンガ造りの教会としては貴重な存在である。 軟弱な地盤のため基礎工事には技術・コスト面で困難を極めたといわれる。
ステンドグラスはフランス製、柱は高良山の杉、レンガは千代田町迎島の五工場に特注したもの、石材は浮羽郡と西見(長崎県)産、内部に掲げてあるキリスト受難の14枚の聖絵はフランス製である。
外部・内部とも建設当初の状態が保たれ、明治後期から大正初期に建設された教会建築の様子を知ることができる。